いのちの声 無端庵的こころ               

国家危急! 洗脳から覚醒し悪魔の思想から離脱せよ!
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朝鮮人慰安婦

映画 血と砂のポスター



三船俊郎の映画「血と砂」昭和40年作品をDVDで鑑賞致しました

昭和20年8月15日の終戦を知らず,雲霞の如き八路軍(共産ゲリラ後の中共)の大軍相手に北支で全滅する皇軍のお話しです
この物語に金山ハルコという慰安婦が出てきます 朝鮮人の設定です
部隊のみんなはハルさんを大事にして守ります
押し寄せてくる八路軍に全滅を覚悟した部隊の、女を知らない少年兵を最前線で「男」にして上げるハルさんがとても好ましい!

この映画の出来た時代には「佐藤允」独立愚連隊シリーズもありますが
慰安婦たちは日本人も朝鮮人も「いきいき」と商売している姿が描かれています
私は戦後生まれで赤線も知りませんがそれらの映画に描かれている「慰安婦」さんたちは
決して性の奴隷ではありません、朝鮮生まれの慰安婦でもどこへでも自由にゆけます
そして、日本人慰安婦とまったく差別がありません、むしろ皇軍が ありがたく思っている感じです

昭和40年ころに描かれたこれらの物語 だれも異を唱えていない事実
後年言いがかりで「従軍慰安婦」なる設定をした方々

昭和20年に日本がコテンパンにされてから20年もたってから作った映画に描かれている事実にいちゃもんつけますか?


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1969東大安田講堂 炎上

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB_(%E6%AD%8C)

今日確信しました

われわれの命がけの戦いは、 アメリカ帝国の覇権に NOというための大いなる戦いでした、 ただし、共産主義の美しい理念と、ロシア、シナ、の強圧とはまったく違う露念であったと考えます。

当時、その戦いに参加した同志に連帯の挨拶を送ります


新右翼 過激派 大城戸豊一
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アメリカ資本主義の崩落

今日は京都有名喫茶店で



京三条大橋の袂にある有名店で、ブルーマウンテンNOIと言うのがお勧めでしたので注文致しました。オーダーをききに来たお嬢さんに「このブルマンはオーガニックか?プランテーションか?」と尋ねると彼女は可愛い顔を曇らせ、困ってしまいました。・・・とても意地悪な質問ですね
一杯600円の珈琲は、もちろん第三世界の人を強烈に搾取し血と汗を強奪して日本の京都の喫茶店に届いているに決まっています。

アメリカの粗悪な「サブプライムローン」という金融商品が欠陥品であり、AAAを付加し世界中に押しつけたのがばれてとても信用をなくしたのがきっかけで、思ったより早く、「パクスアメリカーナ」=「アメリカ型資本主義」ががれきの如く音を立てドミノ倒しのように世界を駆けめぐっている。世界史上強大な米国帝国は約100年で終焉するらしい。もちろん資本主義というものが最後を迎えたからといって、悲観的になる必要もない、なんとなれば、次にきたる「思想は」富の強奪をしない、金銭が権力そのものではない、また権力が金銭と結びついた現在の仕組みを反省したものであるべきで、働くものが働きの程度に応じた報酬を受け取れる、日本の伝統的な考えが、世界に認められる、次世代思想なのだから。そのモデルは江戸時代の封建制にあって権力と資本が分離した姿を「江戸」という都市に見いだせるのではないだろうか、当時の最高水準の文化と治安、物理的には下水道完備の100万都市、ここでは資本は商人に権力は幕府にあった。このモデルこそ250年にわたる耐用年数を持ったしかも変革に際し流血を見ない「維新」が可能な姿である。
これまでのようにだれでもいい、といった、雇用の姿で派遣、パートなどの「修養」を必要としない労働力を使い捨てにする時代は終わりました
日本の基幹産業の自動車各社が今度の問題で最初に切り捨てたのはその種の方たちです。前回はそうでなく、正社員だったことを考えて下さい。
今後は、「気の利いた」仕事が出来る、賃金以上に「気働き」出来る優秀な「忠誠心」がある人材を
終身雇用制に近い形(昔の日本型)で大切に扱う、企業は株主のためでなく、社員や、世間様の為にあるといった実に当たり前(日本的考えでは)の雇用関係が主流になるでしょう。

成田空港の運営会社が、新型インフルエンザのパンデミックに備え、タミフル1万錠の備蓄や、行動計画のシュミレーションをまとめていたと、産経新聞の夕刊にあった。泉州のとある市のように、危機管理室を立ち上げても「想像力」が決定的に無いために何にも手がつけられず、インターネットで情報を取って下さいなどというふざけた広報誌を出して、給料をもらっているレベルではないことがこれで分かるということだけだが・・・・

今現在の世界の関心が「新型インフルエンザ」と「アメリカ資本主義の崩壊」といのも何か考えさせられることばかりで、国家が破綻しているアイスランドの住宅ローンや車のローンが「サムライ債」という円建ての債権であるといわれてもしっくり来ないのは私だけであろうか?

まま・・この後は今までだれも体験していない「資本主義」の崩壊が訪れてくるのであり、その嵐の中で、私たち日本人は、底力を出し切って、そのときを怺え、人類の輝く未来のため礎となることを喜んで選択するべきである。
 皇紀2668/12/27   泉州にて 大城戸豊一 誌
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転載致します 嘉悦孝子伝

嘉悦孝子伝 
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第二十二章 敗れたる祖国と共に
孝にとって輝ける年であった昭和十五年の暮、筆者は戦病を得て現役を免除され、傷痍軍人として金沢陸軍病院から帰還した。

 この年、陸海軍の支持を失った阿部内閣に代って米内光政内閣が誕生したが、米内内閣打倒を目差す陸軍首脳部の意向にそって畑陸軍大臣が単独辞職をし、これによって内閣は第二次近衛内閣となった。阿部・米内の二代にわたる武人内閣に代った文人内閣ではあったが、中国を支援する米・英両国は日本に対する経済封鎖を強め、日本はいよいよ独・伊枢軸側に接近せざるをえなくなり、九月二十七日、日独伊三国協定に調印し、英米に対する対抗の姿勢を強めて行った。
 昭和十六年に入って、四月には“日ソ中立条約”を締結、つづいて野村吉三郎駐米大使とハル国務長官による日米交渉が始まったが進展を見せず、七月には在米日本資産の凍結、ついで英国・蘭印も資産凍結を行い、日蘭民間石油協定を停止。八月アメリカは日本に対する石油輸出を全面的に禁止して、ますます対日経済封鎖を強めてきた。
 石油を産出しない日本にとって、この措置は真綿で首を締められるどころではなく、短刀を突きつけられたも同然であった。
 それでもなお、今上陛下も近衛首相も中国との和解を希望し、陸海軍の説得に努力したが及ばず、十月第三次近衛内閣に代って、現役軍人東条英機内閣が誕生した。もう日本は英米と一戦を交える他なかった。
 手を拱いていれば餓死しかない。
 武人の意地とか、軍人の強がり、軍国主義やファシズムというものでもない。(東条首相といえども個人独裁ではなく、政党は解消していたが一党独裁でもなかったのであるから、けっしてファシズムではなかった)
 植民地化・奴隷化に対する、日本民族必死の抵抗であり、決死の覚悟による自衛であった。
 今にして思えば、日本民族の宿命であったと言う他ないであろう。
 戦後、東条大将を戦争好きの野心家のように誦する近視眼者流文化人もあるが、東条大将を含めて当時の陸海軍人や戦争遂行に参与した人々を非難することは正しくない。
 日本民族すべてが、その時点にあっては、“愛国者”であり、護国の魂を堅持した人々であったと解するのが正しい日本人観である。
 嘉悦孝もまたその一人であった。

 昭和十六年十二月八日、一年生の級担任であった筆者は、校長嘉悦孝や千人に近い生徒と共に、校庭で“開戦の御詔勅”を拝した。
 だが、この年、この月の三十日、思いがけない事故が孝を待ち受けていた。
 その日は、お正月にそなえての大掃除の日であった。
 早朝から孝は、家人や帰郷しない寄宿生の先頭に立って、七十五歳の年令を感じさせずに帚をもち叩きをもって立働いていた。
 千駄ヶ谷の孝の居宅兼寄宿舎の一隅に孝の居間と仏間・寝室があり、その居間の床の間の後が地下室の階段で、孝は叩で床の間うらから障子に叩をかけようとして足を踏みすべらせ、二間ほどの階段下に転落し頭を強打して意識不明に陥ったのである。
 何事も人委せにしないで、率先して仕事をする孝の積極性が招いた事故ではあったが、七十五歳の肉体にとっては大きすぎる事故であった。
 一週間近く、意識不明の昏睡状態が続いた。意識の回復が無ければ、たとえ生命はとり止めたとしても廃人である。
 昭和十七年のお正月は、戦果こそ“真珠湾攻撃”“マレー沖海戦”についで、一月二日にはマニラ占領などと華々しかったが、嘉悦家にとっては明るいものではなかった。
 しかし、やっと一週間目ぐらいに昏睡から醒めて、すこしずつ食欲も出て、側で看護っている吾々を安心させたが、打撲の個所が脳であったので意識に混濁があり、記憶の快復は遅々としていた。例えば筆者の顔をみて“アア、康人さんかい”と言っても、弟の顔は見忘れていて“貴女さんはどなただったかね”などと聞いたりする。
 それでも、熱海に転地療養したりして、約半年程の静養で、幸いにもこれらの症状も無くなり、周囲の者は安堵の胸を撫で下ろした。
 こうして、十七年の秋頃からはボツボツと学校へも出校できるようになり、孝は嘉悦孝たる能力を失わずに社会復帰をすることができたが、何といっても七十五歳の肉体が受けたこの事故は大きく、かつての老いを知らぬかと思われた孝の心身にも衰えが目立ち始めたことは否定できないことであった。
 大きな使命を果した嘉悦孝という一個の魂が、七十五年間の酷使を経てやっと安息の日々を迎えられる時機が当来し、休養と報酬を受ける生活に落着くことができる状態になった。だが、孝個人についてはそうであっても、社会的には孝といえどもそれが許されない時代であった。
 日本国民の誰もが、今上陛下をはじめとして誰一人として休養も安息も許されない時節であった。
 あるいは、最後の最後まで、苦闘の十字架を背負うことが、先覚者としての孝の宿命であったのかもしれない。
“ガソリンの一滴は血の一滴”の標語は、戦争遂行のために国民の協力を求め、老体かつ病後の孝といえども学校の往復に自動車を使うことが許されなくなった。
 しかし孝は、いよいよ平然として、この酬い少い老後の社会的環境に堪え、例の“お漬物さえあれば”の本領を発揮して、「からだの動くかぎりは学校に行って、生徒たちの顔を見なければ、ご苦労の多い天皇陛下に対し申訳が立たない。車が使えないのならば歩いて行けるところへ引越そう」
 こうして孝は、永年住み馴れた千駄ヶ谷から、私達夫婦と長男克をつれて学校に程近い富士見町の細川家からの借家(現在の逓信病院新病院の地)に移り住んだ。
 千駄ヶ谷の家は、祖父氏房終焉の旧宅に続いて建てられており、これは戦前に卒業生その他の方々の厚意で建増しされたもので、孝はこれを彼女の生涯の努力に報いられた唯一の物質的恩恵として、こよなくいとおしんで起居していたものである。この愛着限りない家から出て、富士見町の仮ずまいに入ることは、七十五歳の嘉悦孝の“最後の御奉公”の姿であったと言える。
 筆者はそれから一年有余、孝や妻子とこの仮ずまいに起居し、孝の手をとって坂を上り、学校へ通ったのであるが、十八年十二月六日、応召されて仏印(現在のベトナム)に出征した。そして同月二十八日、長女夕起が生れたが、その報をうけたのは中部仏印のツーラン(現在のダナン)であった。
 昭和十九年、米軍はその優勢な航空機と物量に物を言わせて反撃に転じ、戦局は日一日と不利になって行った。
 六月、マリアナ沖海戦において我が海軍は、航空母艦・飛行機の大半を失った。
 七月、東条内閣が総辞職して、小磯国昭陸軍大将・米内光政海軍大将に組閣の大命が下り、小磯・米内内閣が成立した。
 九月、孝がご懇意に願っていた駐ソ大使佐藤尚武氏がモロトフ外相に和戦の仲介を依頼するために特使派遣の提案をされたが、拒否された。(戦後、筆者は盲老人ホーム聖明園の理事におされ、理事長の佐藤氏に度々面接の機を得たが、これが実行されたら或は局面の打開ができたかもしれなかったと、幾度か述懐された)
 十月、レイテ沖海戦で、日本連合艦隊はその主力の大半を失い、九州ついで十一月にはB29約七十機による東京初爆撃が行なわれた。
 昭和二十年、生徒たちは授業を中止して、安達電機・安藤機器などの諸会社に勤労動員されて、学校本来の機能は中断され、東京空襲はいよいよその激しさを増し、孝の老体を押しての登校も無意味となったので、富士見町の仮ずまいから千駄ヶ谷へ戻ることになった。
 周囲の者も何となくホッとしたが、激化する空襲の危険を考えて、孝に疎開をされては同か、老幼婦女子の疎開は奨励されていることではあるし、七十九年間社会に尽してきた孝であり、恩師孝の身を按じている幾万の子弟を安心させるためにも、と勧めても、
「天皇陛下が疎開もなさらずに、東京でご苦労あそばして居られるのに、陛下よりお先に疎開などとんでもない。そんな恐れ多いことがどぎゃんしてできったい、死ぬならばお膝元で死によらす」
 と、どうしても疎開しなかった。
 これをナンセンスと笑う人もあるだろう。しかし。これこそが、慶応・明治・大正・昭和の四代を行きぬいてきた七十九歳の孝の真骨頂と言わなければならない。
 孝にとって、天皇陛下は日本民族の尊崇の中心であり、日本民族の魂の中核であった。
 戦後、「天皇陛下バンザイ、と言って死んだ兵隊など一人もいない」などという嘘が横行した。“天皇陛下バンザイ”ではなく、“お母さん”と呼んだ兵隊もあるいはあったかもしれない。だが、筆者は間違いなく“天皇陛下バンザイ”と言って死のうと覚悟していた。幸か不幸か、戦場で死ななかったので発言の機会は無かったが、筆者はこれを皇国教育によるものとも考えていない。筆者の深層意識にあるコア・パアソナリティ(中核性格)によるものと考えている。
 孝にしても同様なのである。
“天皇陛下より先には疎開しない”“死ぬなら陛下のお膝元とで死ぬ”これは孝の本音である。そしてこの心を持てる人間の方が、日本人としては幸福なのである。
 これに励まされただけではなく、もともと使命感の強い方々であったからではあるが、学園当事者の人々も懸命に頑張った。高商部長平岡市三先生も女子商部長内海幸作先生も、もう殆ど授業が無くなり、生徒もいない校舎に寝泊りし、校舎を守り通されたのであった。とくに内海先生は焼夷弾による火災が発生するや、身を挺して消火に当られ、その眉宇を火傷してまで頑張られた。
 四月、米軍沖縄本当に上陸。小磯内閣は総辞職し、大命は鈴木貫太郎大将に下り、迫水久常先生は内閣書記官長(現在の官房長官)になられた。

 こうした中で、千駄ヶ谷の家が焼かれたのは、三度の大空襲の最後の一回、五月下旬の一夜であった。
 ここまではまさか、と考えていた山の手住民の祈りも空しく、中野・世田谷の諸所まで戦火の犠牲となった夜である。代々木から千駄ヶ谷にかけて、焼け残った所は僅かであった。
 その夜、孝の身辺にいたのは、ほんの二、三人にすぎなかった。近所の家々から防火に狂奔する叫びが次第に騒がしく高まっていて、四周を包んで焼きはらおうとする焔が、目に見えなくても身近に感じられるようになって来たのは、午後九時過ぎだった。
「もういけませんです。私がおんぶしてお供いたしますから、早く」
 永年身の周りに仕えて、孝から“おムラさん”と呼ばれ気に入られていた奄美大島出身の錦織むらが、しっかり者らしい顔うぃ緊張で固くして、孝にそう言った。
「そう。みんな、道具は惜みなさるな。非常の場合には、それが一番いけない」
 二十年前の関東大震災での体験を想い出してでもいるのであろう、孝は周囲に集まってきた側近や寮生にそう諭した。それは四十年の昔から、寮生活をする若い教え子たちに女性の作法をたしなめてきた、同じ声音だった。家人はその諭し通り、わずかに、記念としてどうしても後に残したい意義ある品だけを、風呂敷に取りまとめ、寝具代りの毛布ニ、三枚をかかえて、気軽に戸外に降り立った。龍人の妻の数子は、孝が防空頭巾をしていないのを見て自分の頭巾を孝の頭にかぶせて、自分は座布団を取って頭巾代りに頭に結えた。むらの背に負われた孝の身体は、帯でしっかりとくくりつけられた。
 かねて話し合ってあった通り、淀橋浄水場の地下室を目差して、迷わずにむらは走り出した。右からも左からも、容赦なく照りつけてくる焔の明りが、孝の身体の重味と相まって頑健この上ないむらではあったが、村の心臓を高鳴らせた。何か左の肩に、孝の手以外の固い物が当る様な感触に気がついて、むらがちょっと振り返って見ると、それは孝が指の間にはさんで持っている愛用の数珠であった。燦々と降りそそぐ陽の恵みにも、何ものをも焼き尽そうとする修羅の焔にも、それを受けて輝く念珠のきらめきの色に差と変りはない。そのきらめきの色の上に、孝の円らかな仏像のような笑顔があった。
「私は先生のお数珠とお顔を見て、仏様を背負っている様な気持になり、それまで恐かった火もなんとなしに恐くなくなったような気持になりました」
 むらは後にそんな術懐をしてくれた。
「おムラさん、とうとうあんたにおぶさる様なことになったね。ご苦労だね」
 世間話の様な静かな声に励されて、むらの足はさらに軽くなった。
「いいえ、島ではもっと重いものをかつぎましたよ。先生」
 むらはそう答えると、背をゆすって孝の重味を背中にうけとめて足を早めた。
「よくは言えませんが、なにかこう、先生と一緒ならこのまま焼け死んでも後悔なんかない、そんな気持がしました」
 むらはこの時の気持を、さらにそう説明してくれた。
“ここが駄目ならあとは運を天にまかせるほかない”そんな思いでたどりついた浄水場の地下室は幸いにもまだ無事で、人を入れる余地があった。早速に敷かれた毛布の上に端座した孝は、周囲の人々の恐怖の視線や家人の心配げに覗きこむ視線も感じていない様に、夜を徹して静かに数珠をつまぐり続けるのだった。そして遠くの騒音にかき消されるようなこともなく低く静かに孝の口から洩れてくる“南無地蔵大菩薩”の呟きが、周囲の人々の耳に微かに入るばかりであったが、この呟きは恐怖におののく人々の心を何時の間にか落着かせてしまったのである。
“南無地蔵大菩薩、南無地蔵大菩薩”
 それは如何なる名僧知識の読経にも劣らない幽玄さで、宵夜周囲の人々の魂を安らげ続けた。

 戦争、それは自衛・侵略の如何を問わず、その規模の大小にかかわらず、一面から見るならば、妄執の争いである。
 そうした我欲・妄執の社会にある女性が、せめて物心両面において出来るだけの生き方ができるように、それが孝の女子商業教育の立願であり、それをさらにアウヘーベンしたものが孝の社会奉仕への努力であり、さらに神を敬し、仏を念じ、天皇陛下を尊崇するという、日本人の行きつくべき最終の一点が、孝の目差す終着点であった。
 翌日、焼跡に集まった身内や寮生たちは、孝の安否を気づかいながら焼跡の始末をしていた。そこへ、むらに手を引かれた孝が帰って来た。側近も二十三名の寮生も、孝とともに全員怪我もなく無事であった。孝はふたたび数珠をつまぐり、その幸せを神仏に感謝した。
 それから暫くの間、また仮ずまいが始まった。しかも偶然にもその仮りの宿は、京王沿線の芦花公園内の、故徳富蘆花氏の寓居の跡の一室であった。勿論、蘆花氏ご遺族のご好意に依るものであるが、ここにも目に見えない糸のつながりがあった。
 樹々の緑に囲まれたこの閑寂な寓居のたたずまいは、あの夜の戦禍によって一段と老衰を重ねた孝の心身の快復には願ってもない良い環境であり、オアシスであった。
 親族達は改めて、よき知己に富んだ孝の人徳を思い、徳富氏ご一族に心からの感謝を捧げるのであった。

 八月六日、広島に異様な爆弾が投下されたが、それこそが恐るべき威力を持つ原子爆弾であった。この時死亡者は二十数万と言われる。
 ついで八日、沖縄の戦局が決定的に日本の不利となり、さらに広島に原子爆弾が投下された事を知ったソ連は、“日ソ中立条約”を何らの事前通告なしに一方的に破棄し、満洲に侵攻を開始し対日宣戦布告を佐藤駐ソ大使に通告した。(日本は八月九日の放送で、始めてこの宣戦布告を知ったのである)
「原子爆弾の出現は、わが国にとって、もっとも重大な衝撃であった。八月七日の閣議では当然これを問題にして討議した。まず、東郷外相から、スイス公使館、万国赤十字社を通じ、かかる残酷な兵器用いることは、毒ガスの使用を禁じている国際公法の精神に反する不当行為であるから、すみやかに停止すべき旨厳重抗議をすることを提議してそのことを決定した。(中略)
 東郷外相は八日に参内し、原子爆弾のことを上奏すると、陛下より、そのような武器が使用される以上防禦も不可能であり戦争継続はますますできなくなると思うから、有利な条件をつけようとして、戦争終結の時期を逸することなきよう、なるべくすみやかに戦争の終末をみるよう努力せよとのおさとしを受けた旨が、同外相の手記にみえている。(中略)(〇、筆者)
 戦後、米側の文献をみると、米国政府も、原子爆弾の使用については非常に悩んだらしいが、日本がポツダム宣言を拒否する構えである以上、戦争を早期に終結せしめ、戦争が長引くことによる追加的の損害を少からしめるため、すなわち、世界の平和、人類の幸福のためには、これを使用するほうがよいという立場で決定したものという。しかし、米国のなかには、この残酷な兵器を無警告で使用したことの罪悪については、いまもって多くの議論が存しているようである。(中略)(〇、筆者)
(筆者註。戦争の命題は、それが始まった以上は、戦争原因の如何を問わず勝つことである。そして勝利という至上命令の前には、手段方法や是非善悪を選択している余裕はないのである。昨今、南京大虐殺がどうのこうのと問題にしているが、あれ以上に残虐な行為は、満洲におけるソ連軍にしても、卑劣なゲリラ戦法を駆使した八路軍(現在の中共軍)にしろ、情容赦なくやりたい放題にやったのであって、これは戦争においては避けることのできない必然悪なのである。だが、それにしても増して非人道的行為は、この非戦闘員一般市民に対する無警告な原子爆弾の洗礼である。
 私は今さらアメリカにこの責任を追求しようとは言わない。
 ただアメリカを含めて人類全員が、その良識を快復することを心から切望するだけである)

 長谷川外信部長から、ソ連宣戦の急報を受けて間もなく、松本外務次官その他が、内閣書記官長室に集まってきた。放送された宣戦布告の訳文もできて、みなで検討をはじめた。なんとしてもソ連のやり方は理不尽千万である。両国の間には、少くとも翌二十一年三月までは、中立条約が有効に存在している。日本はこの条約を忠実に守った。そして、さきごろからは、ソ連に対して和平の斡旋を依頼し、わが方ではこの申入れに対する先方の回答を鶴首して待っていたのだ。六月三日広田・マリク会談に端緒を持ついわゆる日ソ交渉は、六月二十二日の天皇陛下のお考えのお示しを契機として、具体的な国策となり、七月中旬、ソ連に対して、近衛特使の接受と和平の斡旋方を要請して以後、ポツダム宣言の発表があり、また、原子爆弾の投下があったが、わが国は和平の実現のために、ソ連の仲介によることの一本筋を立てとおしてきて、ひたすらソ連の回答を待っていたのだ。それにもかかわらず、ここに与えられたものは、万一にそんなことがありはしないかと危惧はしていたものの、まさかと思っていた宣戦の布告である。
(筆者註。ソ連の対日宣戦がまさに不意打であり、しかも日ソ中立条約有効期間中におけるものであることが、ご理解いただけたと思う。ソ連の意図は文字通り火事場泥棒をすることにあったのである。しかも、火事場泥棒による盗品の北方領土をいまだに返還しない) まさにパンを求めて石を投げ与えられたにひとしい。しかも我が国の実情は、この石を投げかえすだけの力はすでにない。日ソ間の中立条約は、この年四月、条約の規定にしたがい、昭和二十一年三月の満期を持ってその以後は廃棄せらるべきことをソ連から通告を受けていた事は事実であるが、条約はなおその間厳然として有効に存在しているはずである。この神聖なるべき条約は、一片の反故として破り捨てられた。
 ソ連が日本に対して宣戦を布告したときの状況を外務省編の『日ソ外交交渉記録』では次のように記している。
『八月八日午後五時(モスコウ時間)モロトフ委員は大使に対し、大使よりの発言を持たず、早速用意せる露文により、左記宣言を読み上げたる上、大使に手交せり。
 「ヒットラー・ドイツの敗北および降伏後においては、日本のみが戦争を継続する唯一の大国たるにいたれり。米、英、中三国の日本軍隊の無条件降伏に関する本年七月ニ十六日の要求は、日本により拒否せられたり。よって極東戦争に関する日本政府のソ連に対する調停方の提案は、まったくその基礎を失いたり。日本の降伏拒否に鑑み、連合国はソ連政府に対し、同政府が日本の侵害に対する戦争に参加し、もって戦争の終了を促進し、犠牲者の数を減少し、かつ急速に一般的平和の回復に資すべく提案せり。ソ連政府はその連合国に対する義務にしたがい、連合国の右提案を受諾し、本年七月二十六日の連合国宣言に参加せり。ソ連政府はかかる同政府の政策が平和を促進し、各国民をこれ以上の犠牲と苦難より救い、日本人をして、ドイツがその無条件降伏拒否後なめたる危険と破壊を回避せしめうる唯一の手段なりと思考す。以上の見地より、ソ連政府は、明日、すなわち八月九日より、同国、同政府は日本と戦争状態に在るべき旨を宣言す」
 次いで大使より日本政府に対する右宣言伝達の方法につき種々質問せるに対し、モロトフ委員は、右宣言および、会談内容伝達のための東京向け発電は支障なきこと、および暗号電報も差支えなきことを答えたり。ただし本件公電は遂に到達せざりき』(〇、筆者)
(筆者註。外務省の記録のとおり、この公電は日本にとどかなかったのである。抜き打の宣戦布告という大問題である。モスクワ駐在の大使館員が電報を打ち忘れるなどという怠慢がある筈はない。そこには、ありありとソ連政府の作為が考えられる。日本大使館員の打った電報が行方不明になったとしか考えられない。
 八月八日午後五時(モスクワ時間)に宣戦布告を手交し、九日には満洲侵攻なのである。
 沖縄決戦の結果を熟知し、日本本土が全土にわたって爆撃されていることを知り、満洲防備が手薄であることを見抜き、さらに広島に原子爆弾が投下されたことを承知の上で、もう日本には戦う力も意志もないことを見極めて打った処置で、これこそまさに火事泥宣言である。しかも白々しくも、日本人の危険と日本の破壊を回避せしめうる唯一の手段などと言いながら、満洲においては在満一般人に対して暴行・掠奪、暴虐の限りをつくし、多数の日本人捕虜をシベリヤに強制収容して酷使し、その多くを餓死・凍死・病死させ、残余の日本人は共産主義で洗脳し、さらに北方領土を奪っていまだに返還しないのである。
 非戦闘員一般国民に対する無警告原子爆弾の投下に比すべき、暴虐かつ卑劣極まりない、通常の常識を持っては考えられない暴挙である。まさに人間の心を持たない鬼畜の所行であり、これが共産主義社、共産主義国の実態なのである)
 考えてみると、日ソの関係は、従来の長い期間、形は友好的であったが、その実質は決して良好ではなかった。(中略)ソ連参戦の意志が、はじめて米国にささやかれたのは、昭和十八年(一九四三)十月、モスクワで開かれた米英ソ三国の外相会議のときである。この年には、日本軍はガダルカナルを撤退し、四月には連合艦隊司令長官山本元師が戦死しており、欧州戦線では、スターリングラードに突入したドイツ軍が、遂に後退をはじめ、ソ連軍は追撃の姿勢にうつっており、連合軍は、ようやく立直り、ドイツを圧倒する見通しがそろそろついてきたころである。外相会議の最終日の晩餐会の席上、スターリンは、隣席の米国ハル国務長官に対して、『連合国が、ドイツを屈服させたのちには、ソ連は対日戦に参加する』と耳打ちした。これまで米国はいろいろソ連を対日戦に協力せしめようと努力していたのに、ソ連はなんのかのと理由をつけて拒否していたのであったから、ハル長官は、スターリンのこの一言で狂喜した。スターリンは、このとき、『ルーズベルトには伝えてよいが絶対に秘密にしておいてくれ』と念を押している。
 同じ年の十一月末、テヘランの三国首脳会談において、スターリンは、ドイツが最終的に敗北した暁は、われわれはともに戦線に立って、日本を打倒することができるであろうと、公然言明し、翌十九年九月、米国のハリマン大使と英国のカー大使がスターリンに会見したときは、ソ連による南樺太の軍事占領、北海道の爆撃などについて話合い、スターリンは、ドイツ降伏後三ヶ月にして対日戦争に参加すると明言したと伝えられている。
 このことは、昭和二十年二月、ヤルタ会談において、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三首脳によって協定され、かつソ連に対する代償も既述のようにきまったのである。(筆者註。南樺太と千島列島のソ連主権承認。満洲の利権)この協定が署名されるとき、イギリスのイーデン外相はチャーチルに、ソ連の参戦がいかなる結果を生ずるか予想できないから署名しないほうがよいではないかと忠言したということが伝えられている。しかも、この協定は、中国の満洲利権をソ連に与えることを内容とするものであるのにかかわらず、中国に知らせるとその日のうちに世界中に筒抜けになるというので、まったく秘密にしてあった。
 ソ連は、このように対日戦の心構えであったので、二十年四月には、まず、日ソ中立条約を、昭和二十一年三月の満期後は延長せざる旨の通告をしたのであった。ところが、そのころになると、日本の力が加速度的に弱まり、米英としては、ソ連の力をかりなくても、日本を屈服せしめる自信を持ち始め、同時にソ連という国が信頼のおけない国であるという事実をしばしばみせつけられたので、できれば、ソ連の参戦しないことを内心望みはじめていた。ちょうどこの時期に、日本からソ連に和平の斡旋を依頼したのであった。ソ連は、参戦してうる利益と、仲介して得る利益とを比較較量したであろう。
 連合国は、ソ連の参戦を見ないうちに戦争を終結せしめる願望をこめて、この時期にポツダム宣言を発表したが、日本側がよい反応を示さないので、さらに原子爆弾投下という非常手段にでたのである。
 ソ連はポツダム会議の当初、対日宣戦の時期について、準備の都合上、ドイツ降伏後三ヶ月以上にはなるが、八月中旬以降になると訂正しているのにかかわらず、八月六日の原子爆弾投下により、日本が終戦にかたむいてきそうな状況を察して、バスに乗りおくれてはたいへんと、あわてて手を打ったものと思う。それが偶然にも五月八日のベルリンの陥落から、ちょうど三ヶ月目にあたっている。
(筆者註。このソ連の火事泥参戦によって、満洲在留邦人がどんなに悲惨な目にあったかは私の忘れることのできない悲痛な記憶ではあるがこれ以上加言しない。またアメリカの原子爆弾投下についてもこれ以上の追求をする気はない。
 ただただ、ソ連人もアメリカ人もふくめて、人類が再びこの暴挙を繰り返すことのないように、その良識を快復することを切望するだけである。
 広島も長崎も、そして満洲における悲惨な事件も、日本人が“過ちは繰り返しません” ではなく、“過ちは繰り返さないで下さい”なのである。
 さて、ソ連不意打参戦の翌日九日、さらに長崎に原子爆弾が投下された。
 この二つの原子爆弾投下とソ連参戦によって、日本は最後の決断を迫られた。
 軍部それも主として陸軍の主張するように本土邀撃作戦を行なって最後の決戦に勝敗を託すか、それともポツダム宣言を受諾して終戦するか、その何れを選ぶかである。
 天皇陛下をはじめ、鈴木総理も迫水書記官長も、陸軍の主張には賛成しかねていた。なぜならば、それは非戦闘員の一般国民の大きな犠牲を伴うことが歴然としていたからである。しかし、この陸軍の主張を、軍人がメンツだけにこだわった方針とか、国民の犠牲や被害を無視しての主張ととることは曲解である。終戦は止むをえないとしても、国体の護持、陛下のご安泰、日本を亡国にしないために何とかできるだけの努力をした上で終戦したいという、やはり愛国心からと受け取るべきである。
 そして、今上陛下は、これ以上国民の犠牲者を出してはならないと、深くご決意されていたのである)

     聖断くだる

 私はいま、この文章を草しながら、この本を読まれる読者がなんと当時の日本政府は、バカだったのかと思われるだろうと思う。運命の神様の目から見ると、日本は、目隠しをされてあらぬほうをまさぐっていた姿であろう。私は、残念というか、不明を恥じるというか、お人よしであったといおうか、いうにいわれぬ感慨の下に、涙がでてきそうである。しかし、日本の国内情勢は、そう簡単なものではなかった。前にも述べたように、鈴木首相の唯一の願望は、戦争を継続するにせよ、戦争を終結するにせよ、民族が一本の団結を保つことであった。終戦によって、内乱的事態がおこり、血で血を洗う民族内部の闘争がおこれば、日本はふたたび立つべき機会は失われる。日本再興の唯一つの要素は、全日本民族の団結であると信ぜられたのである。当時の軍部は『国体の護持』というなにびとも抵抗しえざる美名を唯一の護符として、狂気の沙汰としか思われぬ強気であった。ソ連を仲介とする和平工作それ自身、陸軍としては、清水の舞台からとびおりるほどの大決心だったのである。機関銃の下にある首相官邸では鈴木総理は、その機関銃が火を噴いて、元も子もなくしてしまうようなことにならないように、それだけが念願であった。
 私は、後日になってから、スターリンが、この対日宣戦を説明して、日露戦争の報復であるという演説をしたことを知って、ソ連の共産革命の発頭人たるレーニンは日露戦争のとき、それをロシアの帝国主義と規定して、モスクワで革命をおこそうとしたことを思い合わせて、さらに憤りを新たにした。ソ連は、日本のなにも知らないお人よしに乗じて、計画的に日本をおとし穴に追込んで、自己の利益を計ったのである。東郷外相をはじめ、ソ連をよく知るものは、ソ連のような共産主義国の倫理は、われわれの倫理と質を異にするから、けっして信ずべからずと、しきりにいわれたのであったが、陸軍は、それを知りつつも、やむをえず信ずる立場をとったのかもしれないが、ソ連をあてにしたことは結局間違いであった。私は今日、ソ連を信ぜよ、といわれても、なにかおとし穴がありそうな気がして心に躊躇を感じる。それは、過去におけるこの深刻な体験が禍をしているのであるかもしれないが、もし、ソ連の考え方が、いまも昔のままであるとするなら、ソ連のひいては共産主義国をこのままわれら自由主義国の倫理の立場において、簡単に信じうる者は、幸であると思う。
 私は、ソ連宣戦のことを、とりあえず、夜中電話で総理に報告したが、九日、夜のあけるのを待って、小石川丸山町の総理私邸に伺って報告した。このころまでには、既にソ連軍は国境を突破して、満州国および朝鮮北東部に侵入しつつあること、満州各地が爆撃されはじめたとの報告を受けていた。間もなく東郷外相も来邸され、三人で協議した。前夜総理から九日の閣議では正式に終戦のことを提案して討議したいといわれていたのに、事情は急変して、原子爆弾の出現に加うるにソ連の参戦という最悪の事態で、九日の朝を迎えたわけである。総理は、ただ黙々として、報告をきかれ、『くるものがきましたね』といわれた。(中略)
(著者註。これから八月十四日のポツダム宣言受諾決定と陛下の戦争終結の詔書のご録音までの日々は、今上陛下にとってもその他の人々にとっても、筆舌に尽しがたい苦悩の連続であった。その詳細については、いま引用させていただいている迫水久常先生の著書“機関銃下の首相官邸”を是非一読されて、その実情を知って頂きたいと思う。ともあれ、もうすこし引用させていただこう)
 天皇陛下は、椅子におかけになったまま少し体を前にお乗り出しになって、まず、『それならばわたしが意見をいおう』とおおせられた。極度の緊張の一瞬である。静かといって、これ以上の静かさはありえない。陛下は、つぎに、『わたしの意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である』とおおせられた。私はその瞬間、ひれ伏した。胸がつまって、涙がほとばしりでて机の上の書類に雨のあとのようににじんだ。部屋の中の空気はなんとなく動揺した。なんびとも声を出す者はいない。みなすすり泣いているのであった。私は、陛下のお言葉が、それで終わりならば、総理に合図して、会議を次の段階に運ばねばならないと考えたので、涙のうちに陛下を拝すると、天皇陛下はじっとななめ上の方をお見つめになっておられ、白い手袋をおはめになったお手の親指で眼鏡の裏をおぬぐいになっておられる。私は、陛下はお涙で眼鏡が曇るのだなと思うと、さらに一しお涙がでたが、陛下はついに、お手をもって、両方の頬をおぬぐいあそばされた。このあと陛下のおおせられたことは大体次のような趣旨のことであったが、陛下ご自身、お言葉はとぎれとぎれであり、抑揚もみだれ、考え考え、一言ずつ絞り出すようにおおせられ、うけたまわるわれわれは、いっそうせき上げて、机にひれ伏し、号泣するのを禁じえなかった。私はそのとき感極まって『陛下のお心持ちはよく判りました。もうこれ以上なにもおおせられないでくださいませ』と申上げたいような気持ちのしたことを、いまもはっきり覚えている。


 『戦争がはじまっていらい陸海軍のしてきたことは、どうも予定と結果がたいへん違う場合いが多い。いま陸海軍は本土決戦の準備をしておって、勝算もじゅうぶんあると申しておるが、わたしはその点について心配している。先日参謀総長から九十九里浜の防衛対策の話を聞いたが、待従武官が現地を視察しての報告では、その話とは非常にちがっているようであるし、また新設の代百何師団(陛下はたしかに師団番号をおおせられたが私は思い出せない)の装備完了との報告を受けたが、実は銃剣さえ兵士に配給されていないことがわかった。このような状態で本土の決戦に突入したならばどうなるか、わたしは非常に心配である。あるいは、日本民族は、みな死んでしまわなければならないことになるのではないかと思う。そうなれば、皇祖皇宗から受け継いできたこの日本という国土を子孫につたえることができなくなる。日本という国を子孫につたえるためには、一人でも多くの国民に生き残っていてもらって、その人たちに将来ふたたび立上ってもらう他道はない。これ以上戦争をつづけることは、日本国民ばかりでなく、外国の人々も大きな損害を受けることになる。わたしとしては、忠勇なる軍隊の降服や武装解除は忍びがたいことであり、戦争責任者の処罰ということも、その人たちがみな忠誠を尽した人であることを思うと堪えがたいことである。しかし、国民全体を救い、国家を維持するためには、この忍びがたいことも忍ばねばならぬと思う。わたしは、いま、日清戦争のあとの三国、干渉のときの明治天皇のお心を考えている。みなの者は、この場合、わたしのことを心配してくれると思うが、わたしは、どうなってもかまわない。わたしは、こういうふうに考えて、戦争を即時終結することを決心したのである』(〇、筆者)
(筆者註。私は迫水先生と同じように、そして恐れ多いが陛下と同じように、涙を拭きふき、陛下のお言葉を書きつづけ、謹んで〇、をつけた。
 もう一度、涙をぬぐおう。
 どこの国に、“わたしは、どうなってもかまわない”とおおせられ、おおせられた君主があっただろうか。
 日本の天皇陛下以外にはない。
 外国の君主は、皇帝も王も、私利私欲の人ばかりである。かりに英明君主・良君と呼ばれても、技術的に方法論的に統治が上手であって、国家の盛大・民心の安定に成功しただけのことである。世界史がそれを証明している。
 私心のないことはもちろん、まさに神の心を待たれる君主は、日本の天皇以外にはないと断言できる)


 それにひきつづいて、軍人がまことに忠勇であったこと、国民がよく一致して戦ったことに対するおほめの言葉があり、また、大勢の人が戦死し、戦傷し、また、空襲などで死んだり、傷ついてたり、財産を失ったりした人々は非常に多いが、その人たちや、その遺族・家族のことを考えると胸がかきむしられるような心持がする。いま、外地にいる大勢の人たちのことも心配でたまらないということなどを、とぎれとぎれにおおせられた。私は、私たちが至らないために天皇陛下にこんなにご心配をおかけすることになった申訳なさに、号泣しながら、心の中で心からのお詫びを申しあげたのであった。(中略)
 そして陛下は、日本国民ばかりでなく、全世界の人類の生命を救うために、自分自身はどうなってもかまわないとお考えになっておられるのだと思うと、本当にありがたいことだと思った。私は、陛下のほんとうの御信念は、いつも『平和』ということだということを、強く強く感じ、戦争終結後の日本は、ほんとうに平和の国としてやりなおしてゆくべきだと感じた。
前にも述べたように、御前会議は一つの儀式であって、席上、陛下がご発言になることは、まったくない。ただ一つの例外は、第二次近衛内閣の末期、日米間の交渉が行きづまり、戦争の可能性が表面化してきたころの御前会議において、陛下は特にみずからお求めになって発言されたことがある。そのとき陛下は余事はおおせられず、ただ、『四方の海みなはらからと思う世に、なぞ波風の立ちさわぐらむ』という明治天皇の御製を二度くりかえして、およみになったと伝え聞いている。陛下の平常のご信念は、世界平和であり、国民の安らかな生活であることは、このことによっても明らかである。当時の政府が、陛下のお心のとおり実行する健前をとっていれば、開戦のときに、明治天皇が三国干渉に対してご配置されたと同じ立場で処置したであろう。それを陛下のみ心に反して、戦争に突入してしまったのであったが、いまここに、遅きに失したが、陛下本来のみ心のとおりを率直におおせ出でられたものであると私は思う。(中略)
 正しい日本の政治のあり方は、天皇陛下のみ心は、総体の民意を象徴しているものだという信念の下に、内閣総理大臣が、天皇陛下のみ心に副うべく、己を空うして、民意の暢達に努力するような責任内閣の存在ということだと考えた。私は、いまも、このときの陛下の尊い、ありがたいお姿を目の前に浮べることができる。洋の東西を問わず、尊いありがたい人の姿を絵にうつすときにはうしろに後光を画きそえているが、このときの陛下のお姿を表わすとすれば、やはり後光を画きそえる外はないであろう。」(迫水久常著『機関銃下の首相官邸』恒文社)

 こうして、形は敗戦、降伏という日本の歴史はじまって以来の屈辱であったが、天皇陛下のご英断と鈴木総理・迫水書記官長その他の人々の決死の努力によって、大東亜戦争は終戦となった。
 林房雄先生は、“大東亜戦争は東亜百年戦争の終曲であった”といわれる。
 たしかに、孝の七十九年間は戦争に明け、戦争に暮れたと言ってよい。
 孝の生誕は慶応三年(一八六七)である。それより十四年前、嘉永六年(一八五三)に軍艦四隻をひきいてアメリカのペリーが浦賀に来港した。
 “泰平の眠りを醒ます蒸気船、たった四ハイで夜も寝られぬ”というザレ歌が、茶の四杯と軍艦四隻をかけ言葉にして当時の江戸庶民の驚きを表現しているが、これが日本の三百年近くに及ぶ鎖国政策を捨てさせる第一歩となり、徳川幕府の力をもってしては、西欧列強諸国の植民地化政策を防ぐことができないとして、尊皇倒幕が叫ばれ、明治維新となったのだが、ロシア(現在のソ連)も度々日本各地をうかがい、ついに万延二年(文久二年・一八六一)には対馬に海軍根拠地を設置しようとして露艦ポサドニックが来航したが、英国の助力によりこれを排除している。
 文久三年(一八六三)には薩英戦争。(フランスは新徳川派で、イギリスは後に倒幕派に援助を申し入れてきたが、さすがに当時の人々は徳川方も反徳川方も日本人として自覚が強く、国内問題には双方とも英仏両国の武力援助を受けなかった。これは日本が他のアジア諸国のように植民化されないで済んだ、一つの大きな要因である)
 文久四年(完治元年・一八六四)には、長州藩と英米仏蘭四ヶ国艦隊との間に馬関戦争が行われた。
 つまり、日本百年戦争(東亜百年戦争)という植民地化を防ぐ自衛戦争が、孝の生まれる数年前から始まっていたのである。
 林先生の『大東亜戦争肯定論』に次のような一節があるので、戦争に明け暮れしながら女子の教育を続けた孝のために引用させていただく。
「ただ、『明治以来五十年の軍国主義教育が太平洋戦争を起した』というのは、どんなものだろう。もちろん、戦争教育なしには戦争は行えない。が教育以前に戦争があるのではないのか。
(著者註。孝はきっと、“ヒヤ、ヒヤ、その通りですたい”と言うにちがいない)
 少くとも戦争の予感またはその萌芽がなければ、戦争教育は行われない。
(著者註。“私の生れる前から萌芽どころか、薩英戦争や馬関戦争があったとではなからすたい”と孝が言っているのが聞えるようである)
 古代からの歴史に現われている戦争好きの征服者や暴君の背後に、民族または部族の『戦争の必要』があったことを見落としてはいけない。最近の実例でも、蒋介石から毛沢東にうけつがれた『抗日戦争教育』は、日本の『侵略』の事実が発生した後に始められている。それで十分、まにあった。
 タマゴが先かニワトリが先かの議論をするつもりは内。事実について考えたいのだ。
『明治以来五十年の軍国主義教育』は、その以前に、『戦争教育を必要とする戦争事実』が発生していたことを示すのではないのか。たしかに、発生していた。明治維新をはるかにさかのぼるある時期に『東漸する西力』に対する日本の反撃戦争が開始されていた、と私は考える。それこそ『再版大東亜戦争史観』だと、上山春平氏に叱られそうだが、叱るのはあとまわしにして、もう少し私の意見を聞いていただきたい。
(著者註。孝いわく“私の女子教育も、上山先生流に見れば戦争教育と言われるかもしれんばってん、私の横井小楠先生の『何ぞ富国強兵にとどまらん大義を四海に布くのみ』、こぎゃん気持たい。誤解ばなさって叱らんようたのみたかですたい”)
 戦争教育のみについてみても、日本の軍国主義教育は明治以降のものではなく、維新のはるかな以前から始まっていた。『富国強兵』という標語も明治以後のものではない。弘化、嘉永、安政のころから、多くの思想家によって発言されている。(中略)
 米英仏蘭の艦隊が西方よりせまり、さらにプチャーチンの露国艦隊が北方に現われた時、だれか『攘夷論』が後年の中国の『抗日戦争理論』即ち『反植民地戦争理論』と似ていることは当然である。孫文も蒋介石も周恩来も中国革命は日本の明治維新に学んだと言っている。日本の『攘夷論』は中国の『反植民地戦争理論』の直系の先輩なのだ。明治維新前の『攘夷論』を『反植民地戦争理論』と解釈することは、決して中共理論の密輸入または逆輸入ではない。」(林房雄著『大東亜戦争肯定論』)

 ともあれ、戦争は終った。
 東京はもちろん、日本の主要都市のほとんどは、空襲によって廃墟と化していた。
 昭和二十年八月十五日、鈴木内閣はその重要な使命を果して総辞職した。

 いま私が原稿を書いている書斎の机の前に壁には、日本私立短期大学関係者に賜った“天皇陛下のお言葉”の額と一緒に、“終戦の詔書”の額がかかっている。これは著者が、捨てるべき生命を永らえて、仏印(現在のベトナム)から帰還して以来、日本人としても嘉悦康人個人としても忘れてはならないものであり、日本国および日本民族再興のための精神的基盤とすべきものとして、かかげているものである。
 嘉悦孝の伝記も終末に近づいたここらで、この“終戦のご詔勅”がいかにして生れ、危機にさらされ、そしれ、玉音放送になったかという、昭和二十年八月十四日から十五日にかけての、大宅壮一氏いうところの“日本のいちばん長い日”の模様を記すことも、けっして無駄なことではなく、孝に関連のないことではなかろう。



    「全員は、みな泣いた」
 十三日午後以来、同盟通信社や外務省よりの連絡によると、米国の放送は、しきりに日本の回答遅延を責めている由いである。来襲する米機からはポツダム宣言に対する日本の申し入れ、それに対する連合国の回答を掲げ、日本国民は軍人の抵抗を排して政府に協力して終戦になるように努力するほうがよいといった趣旨の日本文のビラが散布せされ、国民は敵の謀略宣伝かと疑いながら、政府がなにか措置しつつあることを感じ、同時に軍人はいっそういきりたった。艦載機の機銃掃射は随所に行なわれ、爆撃も再開され、連合国側では新たな攻撃態勢を強化している気配も感ぜられる。第三の原子爆弾が東京に投ぜられるかもしれないともおそれられた。敵側がいかなる手段に出るかも判らないので、これを牽制する意味から、私は、長谷川外信部長に指示して、政府の方針は、受諾に決定したが、手続に暇取っていて回答が遅れているのだという趣旨を海外に向けて放送してもらった。驚いたことには、十五分もすると、米国放送は、このこちらの海外放送をそのままに放送したらしく、陸海軍の将校が大勢押しかけて、私をなじり脅迫した。私は、まったく知らないと逃げたが、長谷川君は長谷川君で、書記官長の指図によったと逃げて姿をくらましてしまうという一幕もあった。(中略)
御前会議は、九日の御前会議と同じの官中防空壕内の一室で開かれた。参列者が多いので、陛下の前に机が置かれたほか、机はなく玉座に面して三列に椅子が並んでいた。玉座からみて左側の端の第一列に首相、平沼議長とならび、右端第一列に両総長がならび、他の閣僚は、その他の席に宮中席次の順に着座し、四幹事だけ最後列にならんだ。(著者註。平沼騏一郎枢密院議長、両総長とは陸軍参謀総長・海軍軍令部総長。四幹事は内閣書記官長、陸軍省軍務局長、海軍省軍務局長、内閣総合計画局長官)
 間もなく陛下が、一同最敬礼のうちに蓮沼待従武官長をしたがえて、ご臨席になると、鈴木総理は立ってその後の経過をきわめて要領よくご説明申しあげ、閣議においては八割あまりのものが先方の回答を承認することに賛成したが、全員一致をみるにいたらないので、聖慮をわずらわすことはその罪軽からざることを謹んでお詫び申し上げるしだいなるも、この席上、改めて、反対の意見ある者より、親しくお聴き取りを願い、重ねてなにぶんの聖断をあおぎたき旨を申しあげた。そして、阿南陸相、梅津、豊田両総長を順次に指名した。三名のものは、順次立って、内容は別に新しいものはなかったが、声涙ともに下りつつ、このまま終戦しては、国体の護持も不安であり、条件が改善せられれば格別、この際は死中活を求めて戦争を継続するほかなしと述べた。私のすぐ前に着席しておられた阿部内相も、手に原稿らしきものを握りしめておられたから、なにか発言されるかと思っていたが、豊田総長の発言が終わると、総理は立って、意見を申しあげるものはこれだけでございますと申しあげたので安倍内相は、なにもいわれなかった。陛下は、おうなずきになって、『外に意見がなければ、私の意見を述べる。皆のものは、私の意見に賛成してほしい』と前提して、前回御前会議のときと同じく、とぎれとぎれに、しぼりだすようにしてお言葉があった。そして純白のお手袋をはめたお手でお頬をなんべんかお拭いあそばされた。一同は、声をあげて泣いた。お言葉の要旨は次のとおりである。

『反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変りはない。私は、国内の事情と世界の現状をじゅうぶん考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えないし、要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答を、そのまま、受諾してよろしいと考える。陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということは堪えがたいことであることもよくわかる。国民が玉砕して君国に準ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。この上戦争をつづけては、結局、わが国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたしとして忍びない。この際和平の手段に出ても、もとより先方のやり方に全幅の信頼を置きがたいことは当然であるが、日本がまったくなくなるという結果に較べて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。わたしは、明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心を偲び、堪えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これはむずかしいことであり、また時も長くかかることとを思うが、国民が心を合わせ、協力一致して努力すれば、必ずできると思う。わたしも国民とともに努力する。
 今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれたものやその遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失ったものの今後の生活については、わたしは心配に堪えない。この際、わたしのできることはなんでもする。国民はいまなにも知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、わたしが国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前にも立つ。陸海軍将兵は特に動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、わたしはどこへでも出かけて親しく説きさとしてよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意してほしい』(〇、筆者)

 参列した全員はみな泣いていた。私は陛下のお言葉のうち『わたしは常に国民とともに再建に努力をする』というご趣旨を拝したときには、敗戦という現実の悲しみを越えて、なにか、歓喜とでもいうべき感激を覚えた。私たちが、ただ雲の上に高く尊いとあおいでいた陛下が、私たち国民の中におりていらっしゃったというような気持がした。私は、陛下が、われら国民をご信頼なり、われら国民に再建をお命じになったのだと感じ、ここに新日本建設の日の出を感じたのであった。総理は立って、重ねて聖断をわずらわし奉った罪をお詫び申しあげ、陛下のご退席を願った。一同泣きながら最敬礼をして陛下をお送りした。(中略)
 当時の詔勅の形式は漢文体であったから、通常の場合なら、要旨をきめてそのほうの専門家に起草を頼むのが慣例であったが、ことは極秘を要することであり、なんびとにも相談ができないことなので、私は再度の御前会議における天皇陛下のお言葉をそのまま漢文体の文章に綴ることとして自分で原案を起草する決心をしたのであった。幸いに、私は、父親から鹿児島の士族の例であったらしく、小学校に入る前から、半強制的に、漢文の素読を教えられたため、学校時代漢文に興味を持っていたのでいささか同年配の人たちにくらべると漢文の素養を持っていたことを父に感謝しつつ、十日、十一日、十二日の三晩ほとんど徹夜して、何枚も原稿用紙を破りすてながら、ときには、涙で原稿用紙を濡らしながら、どうやら形を作り上げた。(中略)
 しかし、私は不安でたまらない。聞くところによると、宣戦の詔勅には漢文の文法上重大な誤りがあったという。私は遂に決心して、十三日深夜その方面の内閣嘱託川田瑞穂先生と私が師事している安岡正篤先生を、首相官邸においでを願い、極秘とすることを誓っていただいてから、私の原案を見ていただいた。その結果加除訂正がなされて文章はいっそう立派なものになった。殊に安岡先生は、私が『永遠の平和を確保せんことを期す』と書いた部分について『この部分に、極めて適切にあてはまると思うが、支那の宋の末期の学者張横渠の文章の中に“天地のために心を立て、生民のために道を立て、往聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く”という言葉があるから、この万世のために太平を開くという言葉をそのままお使いなさい』といわれた。私は、御前会議において陛下のご決心をうけたまわった際、今後日本は永久に平和な国として再建せられることを念じておられると感じたのであったから、まことに、適切なことであると考えて、直ちにこれにしたがったのであったが、この一句が、終戦詔書の眼目となったわけである。(中略)

 清書の上鈴木総理が陛下のお手許に奉呈したのは、午後八時三十分である。陛下は、そのままご嘉納あそばされ、御名を記され、御璽をたまわり、詔書は内閣に回付され、各大臣が副署した。直ちに印刷局に回付し、官報号外として公布の手続の終ったのはちょうど午後十一時である。すなわち大東亜戦争の終了した正式の時刻は、昭和二十年八月十四日午後十一時である。次に詔書の全文を掲げる。

    詔 書

 朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル璽臣民ニ告ク
 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
 抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ規範ニシテ朕ノ挙々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志シニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海軍将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢来亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継継センカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤字ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
 朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヒヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生に至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

  御 名 御 璽


昭和二十八年八月十四日

 詔書成文の『時運のおもむく所』という部分の原案は、『義命の存する所』というのであった。これは安岡先生が、戦争を終結するのは敗けたから仕方がないというのではなく、この場合終戦することは大義天命のしからしむるところ、正しいことであるとの立場に立つべきであるという見地から、特に加筆されたところである。ところが、閣僚中にこんな言葉は聞いたことがない、判らないから修正せよというものがあった。私は、安岡先生に教えられたとおり説明して、原案の維持につとめたが、辞書を持ってきて調べたらという話も出て、ありあわせの辞書を持ち出して調べると、あいにくにもその辞書にはこの熟語が出ていない。辞書に出ていないのでは一般国民はわからないではないかということになって、とうとう成文のように訂正されてしまった。あとで安岡先生は、これでこの詔書は重大な欠点を持つことになってしまって千載の恨事だ。学問のない人たちにはかないませんと嘆息されたのであった。このことについて、つい最近、安岡先生が私に『近ごろの政治には、理想がなく、道筋がなく、まったく行き当たりばったりのようだが、それはあなたが終戦の詔書の中の“義命の存する所”という点を“時運のおもむく所”と訂正したからですよ。時運のおもむく所というのは、時の運びでそうなってしまったから仕方なくということで、理想も道筋もなく行き当たりばったりということです。目前の損得ということです。私は終戦の詔書は、新日本建設の基礎となるべきものと考えていたのに、あれでは、終戦そのものが意義を失ってしまった。その以後の政治が行き当たりばったりなのは、そのせいで、あなたは責任を感じなくてはいけません。寛容と忍耐というのは、いわば時運のおもむく所というほうです。あなたも政治家として立たれる以上、時運派にならず義命派になってください』といわれたことがある。(〇、筆者)

(筆者註。私も数度、安岡正篤先生にお逢いする機会を得て、その深い学識と温厚かつ慈味あふれるお人柄に接し、私の崇敬する日本人のお一人であるが、まさに安岡先生の現代政治観については、先生ご指摘のとおりで、私は孝の残した道を行くのに義命派であろうと努力している)
 十四日午後十一時すぎ、閣議が散会して後、私は、総理大臣室に入って、鈴木総理に対して、この旬日のご苦労に対してご挨拶を申しあげ、そのまま対座した。自然に涙が出てきてしかたない。総理も黙々として深く物思いにふけっておられる様子であった。思いがけなく、扉をノックする音が聞えてふり向くと、阿南陸相が帯剣して、帽子を脇にかかえて入ってこられた。私は立って少し側に寄った。陸相はまっすぐに総理の机の前にこられて、丁重に礼をされたのち、『終戦の議がおこりまして以来、私はいろいろと申しあげましたが、総理にはたいへんご迷惑をおかけしたと思います。ここにつつしんでお詫び申しあげます。私の真意は、ただ一つの国体を護持せんとするにあったのでありまして、敢えて他意あるものではございません。この点どうぞご了解くださいますように』といわれた。阿南陸相の頬には涙が伝わっているのを見て、私も涙が出た。すると総理は、うなずきながら、阿南陸相の近くに歩み寄られ、『そのことはよく判っております。しかし、阿南さん、皇室は必ずご安泰ですよ、なんとなれば、今上陛下は、春と秋のご先祖のお祭りを必ずご自身で熱心におつとめになっておられますから』といわれた。阿南陸相は『私もそう信じます』といわれて、丁寧に一礼されて静に退出された。私は、玄関までお見送りをすると、総理は『阿南君は暇乞いにきたのだね』といわれた。このときの光景は私の終生忘れえない感激である。また、このときの総理の言葉は、わが皇室が二千年の長きにわたり連綿として、代々徳を積まれてこられたことを意味するものであって、まことに深遠な意味があると思う。積善の家に余慶ありというが、わが皇室の積徳はとうていこの言葉ではいいあらわすことのできないほど、大きなものであると信ずる。私は、戦後、西本願寺の法主に、終戦御前会議の際における陛下のことをお話したとき、法主は、そのときの陛下の御心、御姿は、まさに阿弥陀仏様の御心であり、御姿であるといわれたことがあり、また、マッカーサー元師が、初めて陛下にお会いしたときの陛下のお言葉によって、陛下はまさにゴッドであると感嘆したという話も聞いているが、今日皇室のご安泰なるを見て、心から感激を深くするものである。(〇、筆者)
(筆者註。英雄は英雄を知るというか、この時すでに阿南陸相は自決を覚悟しておられ、鈴木総理はその阿南陸相の決意を見ぬかれておられたのである)
 十五日午前五時半ごろであったと思う。私は、憲兵司令官の大城戸中将に電話をかけてみた。大城戸中将の話によって、四時ごろ阿南陸相が自決されたことを知った。そして、昨夜半、陸軍省の青年将校が、森近衛師団長を殺してにせの師団命令によって、軍隊を宮中に入れ、録音盤を奪取しようとして、宮中に侵入したが、東部軍司令官田中静壱大将みずからの説得によって、兵隊は退去しはじめたことが段々に判ってきた。下村情報局総裁以下、録音に奉仕した一行は、朝まで監禁されていたが、これも無事に解放されたのであった。私は録音盤が無事であったことを聞いて、ほんとうに安心した。(中略)
 この日は早朝から、正午に重大放送がある旨繰り返し予告していたが、私は、下村情報局総裁とともに、官邸職員全部をホールに集めて、涙のうちに玉音放送を拝承した。(中略) 私は、どうしても阿南陸相の心事について述べておかなければならないと思う。阿南陸相は、最高戦争指導会議においても、閣議においても終始一貫、抗戦論を述べられた。そして終戦の大詔に副著したのち、“一死大罪を謝す”と遺書し、“大君の深きめぐみに浴みし身は、言い残すべきかた言もなし”と辞世の一首を残して自決せられたのである。阿南大将は、果して心の底から抗戦継続を考えておられたのであろうか。もししかりとすれば、手段は極めて簡単であって、一片の辞表を提出することによって、鈴木内閣を倒し、あとに軍部内閣を作れば、この目的は達せられるのである。しかも、その機会は、自分自身の意志によっていつもこれを作りえた。現に、終戦のことが議に上った閣議において、陸軍大臣が胸のポケットに手を入れられると辞表を提出するのではないかと心配したと左近司国務相は語っておられる。のちに聞くところによると、終戦の際、陸軍はクーデターの準備をして、阿南陸相は、これを承諾し、みずからその指揮をとるから、自分にまかせよといわれたという。当時の情勢において、私たちの最も恐れたものは、陸軍の暴発であった。阿南大将は、戦争を終結し、一身を無にして、国民のみならず世界の人々を救おうとせられる天皇陛下のみ心を体し、終戦を実現せんと心に誓っておられたに相違ない。かかるが故に軍の暴発を最も恐れ、これを抑止するのに心肝をくだかれて、苦肉の策として、クーデターの指揮をみずから引受け、一面、大詔の公布まで閣内の官僚たる地位を保持するため中途で殺されるが如きことなきよう苦心されたものと私は考える。“一死大罪を謝す”とは心にもなき抗戦論を唱えて、天皇陛下のみ心を悩ましたてまつった罪を謝するとともに純真一途国体護持の精神によって手段を選ばず、抗戦を継続せんとした軍の下僚に対し、だましてひきずって遂にその機会を与えざりし罪を謝すという心持ではなかろうか。阿南大将のみずからの生命を断つことによる導きによって軍の暴発は抑止せられて、日本の国家は残ったのである。私は時に多磨墓地に大将の墓参をするたびに、大将の生死を超えた勇気を謝し、小さな墓石に抱きついてお礼を申しあげたい衝動にかられるのである。
 天皇陛下の御仁慈、鈴木総理の信念と舵取りのうまさ、米内、東郷両大臣の不屈の精神、それに阿南陸相の勇気が、わが国を救ったものである。
 最後に私は、特に、昭和三十年十月十五日の“太平”第五号に(鈴木貫太郎記念太平会発行)記載せられた当時の侍従長藤田尚徳海軍大将の一文を左に採録しておく。
 『昭和二十一年一月下旬、天皇陛下のご前に出てあることを奏上したとき、陛下は特に椅子をたまわって戦争につき次のような意味のご述懐をお洩らしになった。
 “申すまでもないが、戦争はなすまじきものである。この戦争についても、どうかして戦争を避けようとして、わたしはおよそ考えられるだけは考えつくした。打てる手はことごとく打ってみた。しかし、わたしのおよぶかぎりのあらゆる努力も効をみず、遂に戦争に突入してしまったことは、実に残念なことであった。このごろ世間には、戦争を終らせた天皇が、なぜ開戦前戦争を阻止しなかったかという疑問を抱いているものがあるようだ。これをもっともと聞く人もあろう。しかし、それはそういうことにはならない。立憲国の天皇は、憲法の枠の中にその言動を制約せられる。この枠を勝手に外して、任意の言動にでることは許されない半面、同じ憲法には国務大臣についての規定があって、大臣は平素より大なる権限を委ねられ、重い責任を負わされている。この大臣の憲法による権限、責任の範囲内には、天皇は勝手に容啄し、干渉することは許されない。
それゆえに、内政、外交、軍事のある一事につき、これを管掌する官庁において、衆知を傾けて慎重に審議したる上、この成果をわたし前に持ってきて裁可を請うといわれた場合、合法的の手続をつくしてここまでとり運んだ場合には、たとえそのことがわたしとしては甚だ好ましからざることであっても、裁可するのほかはない。立憲国の天皇の執るべき唯一の途である。もし、かかる場合わたしがそのときの考えで却下したとしたら、どういうことになるか。憲法に立脚して合法的に運んだことでも、天皇のそのときの考え一つで裁可となるか、却下せられるか判らないということでは、責任の位置にいることはできない。このことは、とりもなおさず天皇が憲法を破壊したということになる。立憲国の天皇としてとるべからざる態度である。断じて許されないことである(これは開戦前の御前会議等のことを抽象的にお述べになったことと想像する)。しかし、終戦のときはまったく事情を異にする。
 あのときには、ポツダム宣言の諾否について両論対立して、いくら論議を重ねてもついに一本に纏まる見込みはない。しかし、熾烈なる爆撃、あまつさえ原子爆弾も受けて、惨禍は極めて急激に加速増大していた。ついに御前会議の上、鈴木はわたしに両論のいずれを採るべきやを聞いた。ここでわたしはいまやなんぴとの権限を犯すこともなく、またなんぴとの責任も触れることなしに、自由にわたしの意見を発表して差し支えない機会を初めて与えられた。またこの場合わたしが裁決しなければ、事の結末はつかない。それでわたしはこの上戦争を継続することの無理と、無理な戦争の強行は、やがて皇国の滅亡を招くとの見地から、とくと内外の情勢を説いて、国民の混乱困惑、戦死者、戦病死者、その遺家族、戦災を被ったものの悲惨なる状況には衷心の同情を懐きつつもm忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐えるのほかなしとして、胸の張り裂けるの想いをしつつも、ついにせんそうを終止すべしとの裁断をくだした。そして戦争は終った。(二回の御前会議を一括しての仰せと拝す)しかし、このことは、わたしと肝胆相許した鈴木であったから、このことができたのだった”』(〇、筆者)

(筆者註。このお言葉を拝承すれば、もう加言する必要もないだろうが、“天皇陛下の―ご肉体は人間であらせられるけれども、み心は神であらせられる―この大御心が、日本を滅亡から救った”という事実だけは、日本民族一人残らずが永久に忘れてはならないことである。私利、私欲、私心なき神のみ心をもたれた世界史に例をみない君主をいただいていることが、日本民族の最大の幸福なのである)
 私は、ここで筆をおくに当って、この二つの大事件が、奇蹟的に良い結果をみたことについて、しみじみ思うことは、諸葛孔明の言葉として伝えられる『図事在人、成事在天』(事を図るは人に在り、事を成すは天に在り)ということと、ドイツのビスマークの言葉として、伝え聞いている『われもし、神を信ずるの心なかりせば、一秒間といえども、宰相の地位にとどまり得なかったであろう』ということである。」(迫水久常著『機関銃下の首相官邸』)

 かくして大東亜戦争は終った。
 そして、女子教育者としての嘉悦孝の社会的活動も、この終戦とともに終ったと言っても過言ではない。
 七十九年七ヶ月の孝の肉体はなお余命を残し、その精神もまた八十の老媼のものというほどの衰えを見せてはいなかったとしても、ふたたび先頭に立ってというかつての気力はすでに使い尽くされていた。
 残された人々は、この新しい時代に対応して、学園を再建し発展させるために立ち上がった。
 孝に代ってその使命を担われた平岡市三氏は、やがて新生の参議院議員として繁忙のかたわら、苦心の采配を振るい、その片腕として努力されたのが、嘉悦学園中興の人というべき記内海幸作先生であった。
 この内海先生をはじめ松野惣一氏(のち総務部長)、富所東一氏(のちの会計課長)などの方々の活躍によって、幸いにも校舎の焼失を免れはしたものの、生徒募集は意のごとくならず、食糧難・住宅難など次々に襲う戦後の荒波の中での学校再建は、筆舌に尽しがたい苦難事であった。
 当時の卒業生数を見てみよう。
 経専(昭和十九年に日本女子高等商業学校から日本女子経済専門学校に改称)
  昭和二十年九月(繰上げ卒業)六八名
  昭和二十二年三月      四七名
  昭和二十三年三月      五二名
 女子商
  昭和二十年三月      一一六名
  昭和二十二年三月      六六名
  昭和二十三年三月      五五名
 嘉悦中
  昭和二十二年三月     一〇二名
  昭和二十三年三月     一四一名
 というような状態で、内海先生などはご自分で生徒募集にまわられたりしたのであった。
 翌二十一年、「いつまでもご好意に甘えていては」と、居心地よかった蘆花邸跡を辞して、麹町の校内の、教室に疊をしいただけの殺風景な一室に居を移した孝にとっては、校内で最後の生活を送ることが本望だったのではなかろうか。そして、望み通りに、ここが死に場所になったのである。
 懐かしい校庭や校舎の、それはたとえ古びたものであっても、少ない人数ながら愛する生徒たちによって清掃され、すこしずつ昔の息吹を取り戻してゆくのを、窓越しに眺めながら孝は人々の報告を静かに聞くのであった。
「先生、三輪田さんが校舎をしばらく借りたいといわれますので、お貸ししようと思います」
「アア、アア、貸してあげようよ。あちらは姉妹校のようなものだしね」
 内海先生の言葉に、さっそく賛意を表する孝だった。
 こうして、学校もすこしずつ活気を呈してきた。
 この年の六月、筆者はようやく仏印から帰還した。
 さすがの孝も、この時は心から喜んで、大きな目をうるませて、
「これで何もかも揃ったね。あんたが帰れば思い残すことはない。しっかりやっておくれ」
 母や妻、幼稚園に入ったばかりの長男克や、よちよち歩きの長女夕起、弟や妹たちにかこまれた筆者を、孝はこう言って迎えてくれた。
 アニーパイル(当時、接収されていた、現在の東宝劇場)に勤める弟達も、すくない給料から家計の手助けをしてくれたが、孝と母と妻子三人、それに女学生の妹二人を加えた一家を養うことは、数年間の兵隊ぐらしからいきなり敗戦の故国に帰った三十の筆者には、たいへんな重荷であった。昼は松野、富所両氏の協力で学校の事務を執り、夕方から友人山端庸介君とその父君の経営するサン写真新聞社にアルバイトしたり、他の友人と共同して芸能社の仕事をしたりしたのも、この時代であった。
 こうした苦境の筆者に、幾度か暖かい救いの手をのばしてくださったのは、法政大学の先輩宮本享一氏で、いま筆者が学長をしている日本女子経済短期大学専任講師宮本勉君の父君である。
 八十歳の孝が、夜間も校内の遠い手洗いに通うのを知って、孝の寝室の一隅に手洗を仮設してくださったのもこの宮本先輩で、氏のご好意はいまだに忘れることのできないことである。
 それから二年。
 遅々としたものではあるが日本の復興をよそに、灯の消えてゆくように、孝の心身は終熄に近づいて行った。
 孝は、二十三年の八月から、まったく床についたままの暮らしになった。
 間もなく又、記憶の部分的喪失や混濁がはじまって、会話中一つのことを何度もくり返したずねたり、訪れる者の顔を、人によっては識別できなくなったりするようになった。
「戸障子を開けておくれ、窓もね」
 暖房も細々とした教室内の一室は、その寒冷もはなはだきびしい、年の暮れの朝であるのに、孝は筆者にそう命じた。
 ためらいを感じながら、言われるままにしたが、何やら孝がもう今やこの世におけるもろもろの処理を終って、ふたたび大自然の懐の中に帰ってゆく準備として、この冷徹した朝の空気や陽光に親しんでおきたいのではなかろうか、などと考えると、筆者の胸は押しつけられるように痛んで、思わず不覚の涙を禁じ得なかったが、大きい両眼を細く落つけて静かに呼吸している孝の安らかな顔をみると、横臥した仏像を拝んでいるような気がして、筆者の心もふと和むのであった。
 あくる昭和二十四年二月三日、最初の昏睡状態がきた。家族も校内に宿泊する内海先生をはじめ、卒業生の馬場幸さん、松野、富所氏などと手わけをして、親戚や知人や卒業生などへこの状態を知らせた。
 五日、吉岡弥生女史が、多忙の時をさいて、緊張した面持で見舞にこられ、自ら脈をとって下さったのは、午前十時頃であった。
 その午後三時過ぎ、親類、かけつけた卒業生、学校の人々、そしてわれわれ家族二十数名に見守られながら、嘉悦孝は八十三年の生涯を静に終った。
 真に、眠るがごとき臨終であった。
「ゴバチャン」
 筆者が孝の耳に口を寄せて大きく叫んだ一言に、孝の喉がグッと鳴ったが、それが孝の最後の一瞬であった。
 校内の寂寛としたこの一室――、筆者は改めて周囲を見まわした。
 これこそ、教育事業に一生を捧げつくし、一身のために財を積むことをしなかった先覚者の死にふさわしいではないか、昂然と胸を張って大声で叫びたい心境がそこにあった。

 昭和二十四年二月五日、午後三時十六分。

 馨徳院殿教誉寿昌孝順大姉  俗名 嘉悦孝
               行年八十三歳

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金さん知りませんが・・・・

金叔賢さん
私はお会いしたことがありません







金淑賢さん=9日、東京(聯合) 日本の参議院選挙で圧勝した民主党の小沢一郎代表の秘書を務める韓国女性が注目されている。国際担当秘書の金淑賢(キム・スクヒョン)さんだ。金さんは2000年に当時自由党の党首だった小沢代表の秘書に抜てきされ、以来7年間にわたり小沢代表を陰で支え続けてきた。日本の政界では、自民党の議員が韓国人留学生をインターンとして起用するケースはあったが、韓国人が正式に秘書として採用されたのは金さんが初めてだ。
 韓国外国語大学日本語科卒業後、大学院を修了し1998年に日本に留学した金さんは、今年東京大学で博士号を受けた人材だ。東大で2年間の研修生活を経て再度修士課程に入学しており、多忙な秘書生活を送りながら「韓中修好に関する研究」で博士号を取得した。
 小沢代表の事務所で勤務する金さんは、国際関係の専攻を生かすため、朝鮮半島を含む国際情勢に関して補佐する業務を主に担当している。週に1回東アジア情勢を報告しており、中国、米国を含む複数のプロジェクトを企画進行している。また小沢代表を訪ねてくる日本の政治家だけでなく、海外の有力者らとの面談では通訳を担当し、選挙期間には他の日本人秘書らと同様に全国を飛び回り選挙支援活動にも積極的に取り組んでいる。
 日本の政界に従事するという関係から、駐日韓国大使館とも随時政局などについて情報交換を行っており、アジア外交を重視する小沢代表の韓日関係に対する認識にも大きな影響を与えているものと金さんは自負している。
 金さんは小沢代表を「プロ中のプロ」と評価し、カリスマ性あふれる典型的なボス型の政治家だと話す。仕事に関してはミスを許さない完ぺき主義者だ。しかし実際には温かい性格で、仕事を離れれば人間的に接してくれるという。金さんは「ボス」である小沢代表が、政権奪取の夢を実現するその日まで、秘書として補佐していく考えだ。
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資本主義崩壊


アメリカの没落後日本こそがこの世界恐慌を切り抜けて、プラウト的経済体制を素早く構築できうる日本人と日本社会! アメリカ追従の盲目主義者や政権のままではアメリカと一蓮托生で心中しかないが 日本がプラウト転換できれば世界のリーダーとして理想の世界平和と人類の文化の繁栄に寄与できるであろう。

◆2010年資本主義大爆裂!―緊急!近未来10の予測 ラビ・バトラ:著

◆アメリカを襲う「二つのバブル崩壊」

●2000年、ITバブル崩壊が「石油バブル」の出発点

グリーンスパン前FRB議長が生み出したものは「二つのバブル」だと前項で述べた。その二つとは、「石油バブル」と「住宅バプル」だ。バブル経済は、第2章で分析したように、いずれはじける運命にある。そもそも、そんな状態を生み出したことが誤りなのだ。

アメリカ市場は、1999年、ダウ平均株価が史上初めて10000ドルを記録した。それは、「ニューエコノミー」、いわゆる「ITバブル」の頂点だった。このとき、グリーンスパン前議長は、大きな誤りを犯した。原油価格が上昇しつつあったことから、インフレを恐れた彼は、1999年の6月以降、少しずつFF金利(フェデラル・ファンド金利)を上げていった。

FRBは、このFF金利を操作することによって市場金利を誘導する。民間銀行で資金が不足したときに、他の銀行から資金を借り入れる場合の金利がFF金利だ。FF金利を上げれば、銀行間の資金の動きが滅少傾向となって、金融が引き締められ、インフレが抑制される。

FRBは、債券市場でアメリカ国債を買い入れるか、売却するかによって金利を上下させる。短期金利は、通常1〜5年のローンに適用され、FF金利に正比例する。消費者は、この金利を負担してローンを組むのだ。

ローンの金利が高くなれば市民は借金をしてまで商品を買おうとは考えなくなる。その結果、国内需要とインフレ率も低下する。ただし、同時に、個人の購買カに直結する実質賃金も下がる。

グリーンスパン前議長の誤りとは、1980年代の日本のバプル経済当時と同じことをしてしまったということだ。バブルの最中に金利を上げると、ある日、株式市場が大暴落することになる。

2000年1月にはダウが11700ドル台を記録し、ナスダツク総合指数も5000ポイントを記録した。しかし、2000年の春から夏にはナスダックが大幅下落しはじめ、この年の終わりには、それまでの景気がバブルだったことをだれもが知ることになった。

2001年に入ると、株価下落に歯止めをかけようと、グリーンスパン前議長は、1月3日に性急にFF金利を0.5%引き下げ、1月末にさらにO・5%引き下げた。けれども、時すでに遅し。アメリカの株式市場はそれまでの勢いを復活することはなかった。

このアメリカのITバブル崩壊は、即座に日本をはじめ世界の市場に影響した。とくに、日本では、日本なりのつましい「IT景気」で、1990年以降のバブル崩壊後の「失われた10年」がようやく終わりつつあるか、と考えられていたところに、このITバブル崩壊が追い打ちをかけた。

その結果、日本の「失われた10年」が「失われた15年」に延長されることになってしまったのだ。世界の株式市場が大きく下落したのに対して、原油価格は下落することはなかった。これはまず、OPEC(石油輸出国機構)各国が原油市場をうまくコントロールしていたことによる。

そして、もう一つの要因は、ITバブル崩壊で株暴落を経験した投資家たちが、株式市場に見切りを付けて、株式とは別の市場に注目し始めたことだ。とくに、ヘッジファンドなどが注目したのが原油市場だった。2001年9・11の同時多発テロも、株式から原油などの商品に投資がシフトする傾向に拍車をかけた。そして、2003年のイラク戦争開始が、「石油バブル」の進行を決定的なものにしたのだ。

●「金利引き下げ」が生んだ「住宅バブル」

アメリカの昔ながらの一般家庭には、鍋やフライパンなど調理道具をピカピカに磨いて長く使い、食事も質素で食材にも無駄を出さず、飾り気のない部屋を、つねにチリ一つない状態に保つ、という「質実剛健」ともいうべき伝統があった。

しかし、今では、「カリスマ主婦」と一時期もてはやされた、「マーサ・スチュワート」に象徴されるような、お酒落なキッチン用品やガーデニング用品をそろえ、「ヒルトン姉妹」のような、「セレブ的」でゴージャスな生活にあこがれ、ビジネスでも「ビル・ゲイツ」のような一攫千金を狙い、車はといえば、国産のフォードではなく、ベンツやBMWを欲しがる風潮が強くなっている。

確かに、「9・11」直後のような社会的動揺と経済的混乱から、アメリカ経済はなんとか脱出したようにも見えるが、だからといって、実質賃金がそんなに上昇したとは思えない。しそれなのに、こうした「セレプ志向」が強まっている背景には、ローンやクレジットでの消費増がある。

米連邦金融監督局の統計では、1975年からの30年間、その他の商品価格が上下しても、住宅価格だけは一貫して上がり続けていたことを示している。かつての日本での「土地神話」と同じように、2005年までは、アメリカでは住宅などの不動産は、持っていれば確実に値上がりする商品だったのだ。確実に値上がりするのであれば、借金をしてでも購入したい、という心理が働く。

ただ、以前は長期ローンを組んで住宅を購入するためには、担保と頭金に加えて、一定の年間所得が必要とされていた。この制約があったために、一定以上の年収がないと、ローンが組めなかったのだ。

ところが、数年前から、「IO=インタレスト・オンリー」という、担保と頭金がいらない新型ローンを組むことができる大手銀行が現れていた。「担保、頭金がいらない」というと、耳触りはいいのだが、実のところ「返済できない可能性が高い」という、ギャンブルに近いローンになる。

ほとんどの金融機関が、「だれにでも資金を提供します。担保も頭金もいりません。今買えば儲かりますよ!さあ住宅を買いましょう!」とあおって、自宅の他に利殖用、転売用のセカンドハウスまで買わせようとしていたのだ。現在と比較して低利だった利子さえ払えば、買った家を転売して数万ドルの利益を,上げることも可能だということで、賭博のようにして住宅ローンを組む人々が増加した。

この「IOローン」登場の背景には、2001年以来の低い金利があった。2000年から01年の「ITバブル崩壊」の株価下落の時に、グリーンスパン前議長がFF金利を引き下げたことを思い起こしてもらいたい。市場に低金利のお金をだぶつかせることで、株価下落を沈静化させようとした。その後、「9・11」の混乱対策で、さらに金利は下がり続け、2004年に引き上げ始めるまで、超低金利が続いたのだ。

このプロセスの中で住宅市場の投機的売買が始まった。住宅価格は高騰しはじめ、低利のローンで買って、転売すればハイリターンになる、という状況になった。アメリカの銀行は競い合うように住宅ローンを貸し付け、個人向け貸付金は、2兆ドル(約230兆円)近くに達していたというデータもある。中には、自行資本金の2倍以上も貸し付けている銀行もあったと聞く。

つまり、FRBのグリーンスパン前議長が、株式市場の下支えのためにだぶつかせた過剰な資金は、「9・11」の影響もあって、先行き不安な株ではなく不動産市場に怒濤のように流れ込んだのだ。これは完壁に「住宅バブル」の状況であり、この状況になるまで放置、いや増長させていたグリーンスパン前FRB議長の責任は重大だ。

●「サププライム危機」の出発点とは

もちろん、アメリカ政府は、この過熱した住宅バプルをなんとか「軟着陸」させようと努力した。しかし、ひとたび経済のリセツション=景気後退が始まれば、長期金利は上昇させざるをえない。そうなれば、住宅ローン、力ードローン、自動車ローンなどの債務が支払えなくなった個人の破産が増加し、銀行もとんでもない不良債権を抱えて行き詰まってしまう。個人破産は2005年の終わりには、すでに増加の傾向を示していたのだ。

2007年半ばに、その巨大な危機が明らかになった「サププライム住宅ローン」は、「IOローン」の借り手とも恐らくかなりの部分でダプっていると思われる。「サブプライム住宅ローン」の破綻が、現在のように巨大な「サププライム危機」となって爆発したことの背景には、やはりグリーンスパン前議長の影がちらついている。

「サププライム住宅ローン」は、1990年代後半、グリーンスパンがFRB議長だったときに、銀行が「信用度の低い借り手」向けに、高い利子を設定し貸しはじめたローン形式だ。

2005年半ば頃までは、すでに触れたように、まだ住宅価格が上昇していたため、住宅を購入して売却しさえすれば、元本を大幅に上回って、売却益が手に入る計算だった。その上、「どんどん消費しましょう」という社会的な雰囲気があり、収入やボーナスが上昇することを見込んで、高金利でも借り手がどんどん資金をローンして家を建てたのだ。

ところが、2005年の終わりから06年のはじめには住宅価格の上昇が止まったことで、銀行が住宅の評価価格を見直しはじめた。これが「サブプライム危機」の実質的なはじまりだ。そして、この危機が、2007年半ばになって一般の目にも見える巨大な破綻となったということだ。

問題の根本は、借り手の返済能力以上に銀行が貸してしまったということだが、この「災害」をさらに大きく、深くしたのは、この「サブプライムローン」が「住宅ローン担保証券(RMBS)などに「証券化」され、さらにこれが加工されて「債務担保証券(CDO)」という複雑な金融商品になっていたことだ。

そして、この「複雑な商品」が、S&P(スタンダード&プアーズ)などの格付け機関によって「AAA(トリプルエー)」と最高の格付けがされていた投資商品にも「混入」していた。これは、要するに「良質の食材の食品」の中に、実は「悪質な食材」が混入していた、ということだ。それを、ウォール街の人々も、経済アナリストも気付かずに、または、事実を知りながらも、「良質の証券」として売ってしまっていたのだ。

彼らが、「強欲」に駆られて売りまくった商品が、実は「悪質な商品」だったことには、恐らく2005年か06年の段階で、だれかが気付いていて、それでも最終的な崩壊ギリギリまで隠されていたのだろう。2007年8月、「サププライム危機」が爆発したことで、世界の株価は何度も同時的に暴落し、金融市場そのものの信用が収縮する、「クレジット・クランチ(信用収縮)」の事態になってしまった。

この惨状に遅ればせながら対応して、FRBが07年9月以降、FF金利を下げたことは、FRBが「サブプライム危機」に対処するつもりがあることを世界にアナウンスすることで、他のローンなどの信頼を取り戻すということと、ニューヨークのダウ平均株価の下落を抑制するという機能は果たせたかもしれない。しかし、FRBの対処が、「サブプライム危機」の解決策になるかというと、それは、はっきりと、「NO」と言わざるを得ない。

明日にも自宅が競売にかけられるという事態に陥っているローンの借り手にとって、FF金利が多少下がっても、何力月も滞納したローンは清算できず、破綻に瀕している「投資商品」なども、復活できる見込みはない。「サブプライム危機」全体として見れば、「焼け石に水」の効果も望めないのだ。

この状況を見れば明らかなように、「住宅バブル」は、グリーンスパン前議長が金利引き上げを17回も繰り返したことで、崩壊しはじめたといえる。「サブプライム危機」の爆発によって、現在、大手銀行が軒並み巨額の損失を出し、不良債権を抱えている。しかも、今後、同時に景気後退が進行する、その混乱状態の中で、「石油バブル」の崩壊が激発・進行すれば、アメリカ経済は完全に息の根を止められてしまうだろう
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朝日新聞紙上討論会の記録

〈朝日新聞京都総局討論会:上〉安倍政権 どう見る
2007年07月09日

 参院選の公示が12日に迫った。京都選挙区(改選数2)に立候補する予定の4氏を招いて朝日新聞京都総局が6日開いた討論会の論議を、2回に分けて詳しく紹介します。(司会は大阿久修総局長、敬称略)

    ◇

 松井孝治 まつい・こうじ。民主現職。元通産省研究官。47歳

 西田昌司 にしだ・しょうじ。自民新顔。元府議。48歳

 成宮真理子 なるみや・まりこ。共産新顔。党京都国政委員長。37歳

 大城戸豊一 おおきど・とよかず。維新政党・新風新顔。婦人服販売会社代表。56歳

 ■久間発言の影響

 ――久間前防衛相が原爆投下を「しょうがない」と発言、辞任した。評価と自身の選挙への影響を聞かせて下さい。

 西田昌司 ひと言で言えば、けしからん。私たちにとっては悪い影響があると思う。

 松井孝治 唯一の被爆国の防衛相として、誠にあるまじき発言だ。安倍首相の任命責任もある。内外ともに影響は甚大で、国益を損なった。

 成宮真理子 首相は(久間氏を)罷免すべきだった。昨年、核武装論の発言が自民党の中川昭一政調会長らから飛び出した。核兵器の使用は仕方ないという立場に立つのかを問うていきたい。

 大城戸豊一 彼(久間氏)こそ米国が日本を植民地化し、占領をし続けるための傀儡(かいらい)政府の代表であったことが浮き彫りになった

 西田 もっと問題なのは、原爆投下も含めて歴史観が生煮えの状態であることだ。日本人はほとんど、歴史的なことで議論したことがない。言葉尻をとらえてそのたびに辞任したり、糾弾されたりしている。日本は前に進まずに、戦後の体制のまま終わってしまう。

 成宮 核や原爆の議論がなかったわけではない。広島と長崎の惨害から核兵器は許せず、二度と繰り返さないというのが戦後日本の出発点だ。

 西田 今、日本の周りには核大国がたくさんあって、北朝鮮まで持っている。事実を教えて冷静な議論をしていかないと、言葉狩りだけしていては、政治が思考停止に陥ってしまう。

 松井 言葉狩りというが、政治家にとっての言葉とは非常に重みがある。核があるのは認めざるを得ないが、核の不拡散や廃絶に向けて努力をしていくというのが日本の国是。一方、戦後日本が歴史的な総括を終えていないのは事実だ。(侵略や植民地支配をおわびした95年の)「村山談話」一つをとっても、後にいろんな議論が出てくる。

 西田 戦後の枠組みをどう考えるか。私はそのまま正しいとは思わないし、憲法をはじめとする様々な矛盾はそこから出ている。政治家は真摯(しんし)に受け止めて国民に訴えないといけない。

 成宮 20世紀にあった2度の世界大戦をふまえて、人類は市民を無差別に殺戮(さつりく)する大量破壊兵器は禁止していこうと努力している。北朝鮮も米国も持っているから日本も持てばいいという発言が飛び出しているが、それではいけない。

 西田 政治家の使命は国民の生命、財産と名誉を守ることだ。日本は自分たちの名誉、つまり歴史観を守ることを一切放棄している。

 ――米高官が原爆投下を正当化する発言をしたが、政府・自民党から抗議はあまり出てこない。

 大城戸 日本は米国の占領下に置かれていると彼らは思っているんじゃないか

 西田 当然抗議すべきだと思う。ただ、米国と日本で歴史観が違うのは当たり前だし、中国とも違う。彼らの発言も米国の歴史観だと日本人はわかっていないとだめだ。

 松井 この戦争をめぐっては各国ばらばらの歴史観で対立するのではなくて、意見交換を大いにやっていくべきだ。米国に言われたままの歴史観を受け入れる必要はないし、日本が独善的な歴史観を持つ必要もない。

 成宮 米国でも(原爆を投下して)良かったのかという世論がマスコミでも取り上げられている。大量破壊兵器は禁止していくという流れこそ、世界で共有していくべき歴史観だと思う。


 ■安倍政権について

 ――安倍政権の国会運営について聞きたい。

 松井 数の力に頼って、これほど強行採決をしてきた内閣はないと思う。最後の年金問題もそうだ。しかも、何のために会期を12日間延長したのか。今まで、横綱相撲を取るのが参院自民党の方針だったにもかかわらず、今回は「官邸の下請け」になっている。

 成宮 いろんな強行採決やスキャンダルがあったり、大臣が自殺したりということがあっても、安倍首相は国民にちゃんと説明できない。政権担当能力が問われている。

 大城戸 チェック機能で、もう一度考え直そうというのが参議院の姿だ。腰を据えて物事を考えることが本来、求められている。さまつな議論をやっていていいのか。食糧や石油枯渇の問題など、高い次元の国策について大きな立場に立ち、国益に目を向けた参議院のあり方が重大かつ緊急だ。

 西田 強行採決が言われるが、野党側も初めから議論する気がない形でやっているからだ。年金記録問題は安倍政権がつくったのではない。誰が悪いというのではなく、出てきたときにきっちり整理すること。国民に一円たりとも損害が出ないように、それから二度とこういうことが起きないように、責任の所在をはっきりさせる。これらは(与野党で)ほとんど対立がない。対立は国会運営の問題というより、政局を作り出すことを目的に、ためにする議論があったのも事実だ。

 松井 年金問題で対立点がないわけじゃない。安倍首相が(5日の会見で)記録のコンピューター上の突き合わせ(照合)の問題を言っている。照合を早めても問題は解決しない。「宙に浮いた年金」が誰に帰属するか、記録を統合することが大事だ。照合だけ早めてやりますといっても、我々の主張と同じだとは見ないでほしい。消えた年金問題は、我が党がずっと取り上げてきた。

 西田 解決の方向は同じだ。手法に多少違いがあることが果たして論点なのか。国民はそんなことを思ってないと思う。

 成宮 年金問題でどうすれば、みなさんの不安を払拭(ふっしょく)できるかと与野党一致して議論している時に、自分たちの都合で、国会を12日間延長して、それにもかかわらず、会期を5日間残して強行採決したのは与党だ。民主党の対応にも不満がある。国民投票法案で民主党は採決日程に合意した。議論をもっとしっかりするべきだという国民世論に背を向けたことになる。

 松井 採決に応じるかどうかは、それまでどれだけの議論を割いてきたかの程度による。今国会の運営はあまりにも強硬すぎた。(与党の)国民投票法案は「憲法改正手続き法案」で、(民主党案と)大きな隔たりがある。憲法だけでなく重要事項について国民投票を導入するかどうかは大きな選択肢で、我々はそう主張してきた。

 成宮 国会議員は国民に選ばれたのだから、国民世論に立つべきだ。多くの世論が採決を望んでないのに、採決日程に同意するというのはやるべきではなかった。

 西田 参院議員は6年の任期がある。解散がないから、自分の信念、歴史観を堂々と言わなければだめだ。そういう認識を持っている人が良識の府に集まらないとだめだ。歴史観を持って、国民や党に繰り返し訴えて初めて、国民に根本的な問題は何かがわかる。

    ◇

■通常国会をめぐる主な動き■

1月25日 開会

  27日 柳沢厚労相が「女性は子どもを産む機械」と発言

2月16日 民主党が「宙に浮いた年金記録」問題について衆院調査局による調査結果を発表

5月8日 社会保険庁改革法案が民主党対案と共に審議入り

  14日 国民投票法が参院本会議で可決、成立

  28日 松岡農水相が自殺

  29日 与党が年金時効特例法案を提出

  30日 同特例法案が衆院委で強行採決。政府は宙に浮いた年金記録を1年以内に突き合わせるなどの対策を発表

6月20日 改正イラク特措法と教育関連3法が参院本会議で可決、成立

  22日 会期の12日間延長を衆院本会議で可決

  30日 社会保険庁改革関連法と年金時効特例法、改正国家公務員法が未明の参院本会議で可決、成立。久間防衛相が「原爆投下はしょうがない」と発言

7月3日 久間氏が辞任を表明

  5日 閉会

(肩書はいずれも当時)

    ◇    ◇

 キーワード 参議院

 任期6年で解散はない。議員定数は242人(うち選挙区146、比例代表96)で、3年ごとに半数を改選。現在、自民、公明などの与党勢力は134議席、民主、共産などの野党勢力は106議席。予算議決、条約承認、首相指名は衆院の決定が優先し、衆院で可決した法案を参院が否決しても衆院が出席議員の3分の2以上で再可決すれば成立する。政党化が進むなどして「衆院のコピー」との批判や不要論もある

大城戸註
これを今読み返しても、「寄生」政党の考えはその場しのぎであって大局発言は無い!
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最後の伝令

2668−02−24竹島奪還デモ 大阪


城の中の城から
最後の伝令がでる
遙かな山並みに上がるのろしを合図として

点滅する紅いシグナルを携え
滅びゆく国家の運命を
都市の内なる辺境に待つ同志へもたらすために

方舟に乗り合わせたのが不運なのか
無関係な虚構によって始まった崩落が
痛みをともなう現実となる

その明るみに矜持をたもつものは
真実への回路を知るだろう
栄光の残像がすぎない刻に標べを探せ!

眼の力が不都合ならば
燃えてしまった地図に記されたことは
美しい自死として思想に置き換えればよい

すぎて行くものに哀惜をこめて
後継の印を示し
屍を野にさらしても伝える「ことば」がある

ゆけ!伝令よ・・スメラミクニイヤサカ
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野村秋介先生15回忌

野村先生著作の表紙




光陰矢の如しとはいうものの・・・

レコンキスタ353号10月1日号が手元にある。
言うまでもなく日本民族派団体一水会の機関誌である
レコンキスタとは「失地恢復」という意味

そこに経団連事件の「檄」が掲載されていた。
見事に現在の国のあり方を糾弾した一文である。
是非、今の方にも読んで頂きたいと考えた。

以下に転載する

  檄
 三島由紀夫・森田必勝烈士と楯の会会員が、自衛隊を衷心から敬愛し、かつ信頼していながら敢えてあの市ヶ谷台の挙に及んだに等しく、われわれも敢えて今日この「檄」を日本財界首脳諸氏に対して叩きつける。
 大東亜戦争の敗北によって、廃墟と化した戦後日本の復興に、財界が少なからぬ寄与をし、如何にその指導的役割を果たしてきたか、これまでの歴史的事実を、われわれは決して軽んずるものではない。
 しかしその反面において、諸君らの営利至上主義が、どれほど今日の日本を毒し、日本の荒廃と混迷を促し、社会世相の頽廃を煽ってきたか、その罪状看過すべからざるものがある。
 ロッキード疑獄が投じた政治の混乱は、国民の政治不信を抜き差しならぬところまで追い込み、自由社会の根幹をすら揺るがすに至っている。
 それだけではない。
 日本の文化と伝統を慈しみ、培ってきたわれわれの大地、うるわしき山河を、諸君らは経済至上主義を持ってズタズタに引き裂いてしまった。
 環境破壊によって人心を荒廃させ、「消費は美徳」の軽薄思想を蔓延させることによって、日本的清明と正気は、もはや救い難いところまで侵蝕されている。自ら生んだ子供をコイン・ロッカーに平然と遺棄する異常の社会を、君らは、君らが意図したか否かは別として、現実として構築し続けてきた。
 営利至上主義の犠牲となった薬品公害患者の苦悩を、君らは一度でも、真摯に顧みたことがあるのか。
 水俣病患者・スモン病患者の心痛に対して、一度でも敬虔な反省をもったことがあるのか。
 大昭和製紙等に見られる無責任きまわるヘドロ公害、または瀬戸内海を死の海へと追いたてている現実の大企業体質を、君らは一度でも虚心に直視したことがあるのか。
 祖国民族あるを忘れ、大衆国民のあるを軽んずるこの天を恐れぬ諸君らの所業は、必ずや日本を、否、全人類をも亡ぼすこと必至である。
 しかし、われわれの悲願は、ヤルタ・ポツダム体制そのものの打倒にあるのだ。したがって、諸君らのみをたんに弾劾するつもりはない。
 日本は、大東亜戦争の敗北によって無条件降伏を強いられたが、アメリカを中軸とした戦勝国は、戦後処理を徹底的に日本民族の弱体化に置いて敢行して行った。瞭然たる史実である。
 その結果が、現今、眼前に晒されている日本の姿である。物質的に豊かになったと言う美辞に弄されているのは錯覚である。
 日教組の目に余る偏向教育は、青年たちから夢や浪漫や祖国愛を奪い、連帯感や責任感の喪失を顕著にして重大な社会問題を提し、マスコミ、殊にマンモス化した新聞の横暴と跳梁は心ある人々の慨嘆と怨嗟の声を集めている。政治の混迷は祖国日本の基盤そのものさえ揺るがし始めている。
 東洋の君子国と謳われた日本の栄光は、いまやかけらほども見出すことができない。
 すべては日本民族の弱体化を眼目としたヤルタ・ポツダム体制の歴史的呪縛にその源泉を見る。だがしかし、この三十年間に及ぶ戦後体制を最も強力に支えて来た勢力が、金権思想・営利至上主義の大企業体質そのものであったことも韜晦をゆるされぬ事実である。
 われわれはかくのごとく断じ敢えてこの挙に及ぶ。
 古代ローマは平和を貪ることによって自ら亡んだ。祖国日本が同じ轍を踏むのを座して看過できない。
 日本を亡ぼしてはならない。
 営利至上主義のために「祖国」を見失ってはならない。
 憲法改正!
 安保廃棄!
 天皇陛下万歳!

YP体制打倒青年同盟  


 日本財界首脳諸君へ
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特殊警棒は府条例違反

増える凶悪犯罪〜護身グッズを携帯している人はどのくらい?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=588587&media_id=17

救う会が出来る前「北」を攻撃することはタブーだった

拉致という言葉も仲間内で通用する程度のころ、世間様に拉致を訴えるとみんなが尻込みしてすり抜けていった。そのころは、アメリカ製のバトンを標準装備していつでも戦えるようにバッグに入れていました。むざむざ殺されてたまるものか、北の工作員を打ちのめし逮捕してやろうという魂胆です。

北が普通の日本人と思ってくれればもっけの幸い!相打ち覚悟で捕獲してやる
私の覚悟が伝染したのか、息子も持っていました。彼は、相当な腕前ですから
私と2人なら5人くらいなら30秒もかからないでしょう。強く打ちすえます

ところが、府条例が施行されて鉄の棒 木の棒は違反品目となりました。
そこで、現れたのが「大日本建国義勇軍」の村上さんブラックジャックを販売してくれました。これは、革の袋に入った散弾銃の弾 府条例にかかりません
が、私が使うとおそらく相手は死にます。かるくて、堅牢な造り込みは村上さんらしい選択です。 ところで彼はまだ、刑務所ですか?


みなさん、彼を応援するために刀買うなら 「日本レジン」をお願いします
そこで、気に入らなければ私、オーキッドグループを・・・・・
いいお刀ご紹介致しますよ!
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